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2013年度東京大学-ハワイ大学夏季比較哲学セミナー準備会(4)

2013.07.20 川村覚文, 文景楠, 神戸和佳子, 東西哲学の対話的実践

8月開始に向けて着々と準備を進めております東京大学―ハワイ大学共同比較哲学セミナーの4回目の準備会の様子をお届けします。今回は石田正人先生の論文を読み、道元とウィリアム・ジェームズを題材に多元論と一元論といった哲学的枠組みについて論じました。

7月3日(水)

7月3日(水)の準備会では、石田正人氏の "The Metaphysics of Pluralistic Manifestations in James and East Asian Buddhism" (Forthcoming in William James Studies, Vol.9, 2013) について佐藤が報告を担当し、全員で英語の討論を行った。

石田氏の論文では、ジェームズと禅宗(特に曹洞宗)の比較を通して「世界を多元的と見るのか単一と見るのか」といったことに主題が置かれていた。結論において筆者は、ジェームズと道元の比較を試みるものの、「そもそもこうした問(主題)を立てること自体が有効なのか」という疑問を提示し、そうした問を立てること自体が述語的問題(predication problem)ではないだろうか、ということで結んでいる。報告者は、石田氏の論文から、議論のために新たに問いを示し「西洋と東洋の思想が互いに影響を及ぼし合いつつ、どのような方向へ進展していくのか」について、出席者の討論を求めた。

討論では、筆者が指摘した述語的問題の解釈の観点から、西田哲学から派生した京都学派における述語的論理主義について、また西田がハイデッガー、カントと同列にジェームズについても評価していた点について、川村氏と杉谷氏から説明があった。その後、論文中に引用されていたライプニッツのモナドについて東家氏から指摘があった。ライプニッツについて、コンテクスト解釈を試み、存在論の解釈について、仏教、道教、道元、西田、ジェームズなど様々な思想の検討を試みた。杉谷氏から、中国における仏教の導入期において道教を基盤としつつ、仏教の解釈が試みられていたという指摘を受け、西洋においても同様な試みの結果としてジェームズやライプニッツの思想が派生したのではないか、ということで討論において理解を深めた。討論の後半部は宗教概念批判から、ジェームズと道元を比較すること自体に意味があるのか、西洋と東洋の哲学を比較することに意義があるのか、といった突っ込んだ議論へ進展した。

予定時間を大幅に過ぎてしまった討論であったが、どの議題も非常に示唆に富み、時間を忘れてしまう白熱した討論が展開された。

(佐藤麻貴)


7月6日(土)

7月6日(土)の準備会では、石田正人氏の論文 "The Metaphysics of Pluralistic Manifestations in James and East Asian Buddhism" について、神戸が報告を、文が司会を担当し、英語で議論を行った。

石田論文は、ウィリアム・ジェームズと道元との比較を通じて、その共通の世界観を描き出そうとするものであった。彼らはともに、一元論 対 多元論という存在論の対立のいずれにも与しない、独特の世界観を展開したことが示された。

ジェームズも道元も、参加者にとってそれほどなじみのある哲学者ではなかったため、彼らの経歴や基本的なアイデア、また、論文中で提示された公案や引用文の意味を、丁寧に確認するところから議論が始められた。議論が進むにつれて、現代フランス思想との共通点や、前回の準備会で扱ったAmes論文にみられた中国的な形而上学との異同など、様々な観点からテクストが読み解かれていった。印象的だったのは、議論の中で、参加者それぞれの支持する存在論の違いが浮き彫りになっていったことである。論文に示された立場を鏡に、みずからの立場を省みたり、他の哲学者たちと意見を交わしあうことは、非常に愉しく有意義であった。

議論が終わる頃には、もっと石田先生に道元のお話を伺いたい、との声が口々にあがった。1ヶ月後に迫ったセミナーに向けて、大いに期待の高まる準備会となった。

(神戸和佳子)

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