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梶谷真司「邂逅の記録49:哲学プラクティスの職業化」

2013.05.25 梶谷真司, Philosophy for Everyone

2013.05.20 哲学プラクティスの職業化

 5月20日(月)、アメリカのニューヨーク市立大学哲学科の教授ルー・マリノフ氏(Lou Marinoff)を迎えて、哲学プラクティス全体についての説明と、その職業化についてお話しいただいた。アメリカ哲学実践者協会(American Philosophical Practitioners Association: APPA)の創設者であり、世界の哲学プラクティスを牽引してきた一人である。とりわけ個人向けのカウンセリングと、企業などの組織へのコンサルティングの分野では第一人者で、いくつものグローバルな組織や国際的なリーダーシップフォーラムにも協力している。
 一般に(特に日本では)哲学プラクティスと言えば、哲学カフェのような愛好者の集まりか、初等中等教育での対話型授業を指す。病院や会社の研修でも行われているが、単発的な試みにとどまり、継続的な活動には至っていない。しかし大阪のカフェフィロのメンバーや立教大学の河野さんら、哲学対話を使った研修をしたことのある人は、潜在的な需要は確実にあるという感触を得ており、また、私自身も、企業の人に話をすると、興味をもつ人が多く、同様の印象をもっている。そこで今回、河野さんがマリノフさんと知り合いであるということもあって、UTCPのP4E(Philosophy for Everyone)プロジェクトで彼を招聘することになった。
 20日はその最初のイベントとして、東大の大学院の英語教育プログラムであるGSP(Global Society Program)の授業を一般にも公開する形で講演をしていただいた。通訳なしであったにもかかわらず、GSP所属の留学生以外に、学生、高校の先生、一般の人など、12人ほどが参加して下さった。

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 マリノフ氏はまず世界的に広がりつつある哲学プラクティス全般について話し、その後、彼が行っている個人向けの哲学カウンセリングの方法を、事例を交えながら説明した。彼はクライアントに様々な問いかけをして、その人の個性や彼らが抱えている問題を浮かび上がらせる。そしてその人にふさわしい哲学者の言葉や思想的立場を選び、そこから各自が自分の問題や自分を取り巻く状況を反省的捉えられるように導いていく。それは確かにカウンセリングと言えるものだが、問いかけによって彼ら自身が問題や自分自身に気付くようになることが重要だという。
 アメリカではサイコセラピーが盛んだが、そこではセラピーそのものよりも、うつ病やADHDなど診断名をつけて薬を出すことが重視される。その病名は、その人の病歴に“正式に”記録され、スティグマとなる。マリノフ氏は、それを「疫病(epidemics)」と呼んでいたが、アメリカの社会においてこうした行き過ぎた医療化は深刻な問題であり、医師やセラピスト、製薬会社の利権と絡み、人々を薬とセラピーに依存させ、そこから離れられなくさせてしまう。そうした状況にあって、哲学によるカウンセリングが果たすべき役割と責任は大きくなってきているという。

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 彼のコンサルティングにおいてもソクラテス的対話法が使われるが、そこには非常に明快なルールや基準がある。たとえば、自分の疑問を言う、一人で長々と話してはいけない、どこかの本に書いてあることや誰かが言ったことを引き合いに出さない、事例はかならず自分の体験に基づいて簡潔に話す、等である。マリノフ氏は、あるグループで行った「希望とは何か」という対話で、哲学の訓練を受けていない素人6人で出した「希望」の定義を、ホッブズやショーペンハウアーのものと比較したが、それは哲学者に引けを取っていないどころか、むしろより優れているくらいであった。その強みは、一人で考えているのではなく、何人もの人によって様々な角度から考え、問い、探求している点である。彼の紹介した事例から、哲学対話という方法の強みを改めて教えられた。
 彼の話でとりわけ参考になったのが、職業化のために必要な要件である。それは公的に認可された組織の設立、活動の範囲の明確化、倫理規定、定期的な会合と刊行物、資格のためのプログラムである。また哲学対話によるアプローチがふさわしい問題として、個人的な善悪、職業的な倫理、意味や価値や目的に関わる問題、個人的ないし職業的な満足感、考え方の矛盾、変化した生活条件の受容等を挙げていた。

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 こうしたことは、たんに学校教育における哲学対話に限って言っても、他の類似の方法とどこが違うのかしっかりと差別化をするために重要であろう。対話が哲学的でなければならないということは必ずしもないが、哲学的であることの利点、意義は、明確にしなければならないし、そのことは、「哲学とは何か」という哲学そのものにとって本質的な問いに答えることでもある。今改めてそれを問うところに、哲学プラクティスがたんなる応用や実践ではなく、それを超えた新しい哲学の潮流であることが示されているのではないだろうか。

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