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梶谷真司「邂逅の記録35: P4E(Philosophy for Everyone)への道(6)」

2012.12.25 梶谷真司, Philosophy for Everyone

《学ぶことのない書く方法と考える方法》

私はT大学で、問いの立て方を意識的に明確化し、それをゼミのレポートや論文、就活の書類の作成に活用し、そうした実践を通して問いの立て方をいろいろと工夫していった。そうやって指導すると、学生の力は、程度の差こそあれ、意外なほどよく、しかも確実に伸びることが分かった。学力のあまり高くなくても、文章を書き慣れていなくても、ちゃんと書けるようになる。もちろんいわゆる文章のうまさは変わらない。教養ある文章が書けるようになるわけでもない。けれども、論旨が明瞭で、筋道だった、「いい」文章を書くようになる。そして、就活でも内定をとってくるようになる。
そんなことをしているうちに、ふとしたことから東大で教えることになった。諸事情から、ゼミ形式の授業は担当しないため、学生たちにじっくり文章の書き方を教える機会はなくなった。講義形式の授業で、学期末にレポートを提出させることにして、T大学でやっていたレポートの書き方の概略だけは伝えた。しかし出てきたレポートの多くは「書けて」いなかった。もちろん東大生は、文章は書き慣れているから、とりあえず字数は稼げる。勉強もするから知識もあるし、言葉もよく知っている。そういうところはT大の学生とは確かに違う。でも、「書けて」はいない。テーマやポイントがはっきりしない、論旨が一貫していない、ということは似ている。しかも、量だけは書くので、自分が実は書けていないということに、おそらく気づいていない。
そう、やはり根は同じだ。しっかりとした問いがない、だから思考もあやふやなまま、ただ流れ、それが文章として積み重なるだけになる。これは、レポートや論文を書くための高度な学問的訓練がなされていないという問題ではない。東大生も考える方法を知らないのだ。だから書けないのである。意外に思うかもしれないが、たぶんこの点では、大学のレベルによって程度の差はあっても、本質的な違いはない。根底にあるのは、授業中に質問がないのと同じなのである。
これで日本の大学でレポートや論文の書き方がほとんど教えられていない理由が分かる。そういう名目の授業があったとしても、それは、文献の調べ方、引用の仕方、注の付け方など、レポートや論文を書くためだけに必要な特別な技術の伝達である。こういうものは、確かに学術的なものの“体裁”としては重要であるし、そうした形式的なものが、いわゆる「形式的」で瑣末でどうでもいいことだと言うつもりはない。個人的には、何にせよ「形式」というのは、一般に思われている以上に重要だと思っている。けれどもそれはどこまでも、レポートや論文の書き方でしかない。それ以前の「書く」ということそのものの方法を教えることにはならない。そして「書く方法」とは、やはり「考える方法」からしか出てこない。しかしこのようなあまりにも一般的な技法を、いったい誰が、どこで教えるのだろうか。小中高から大学に至る学校システムの中に、それを位置づける場所は、不思議なほどないのである。

(続く)

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