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【報告】ロバート・ベラー講演会「Maruyama on Comparative Fascism」

2012.10.15 中島隆博, 高田康成

 2012年10月4日、東京大学駒場キャンパスにて、ロバート・ベラー博士(カリフォルニア大学バークレー校名誉教授)の講演会「比較ファシズムにおける丸山眞男」(“Maruyama on Comparative Fascism”)が開催された。同講演会は、日本聖公会ウィリアムズ主教記念基金・立教大学社会学部の招聘により来日されたベラー博士による連続講演の一環をなすものである。

 宗教社会学の泰斗・ベラー博士は、徳川期の宗教倫理の機能分析を通じて、日本の近代化の文化基盤を照射した『徳川時代の宗教』で本格的に出発して以来、50余年にわたって広範な研究を世に問い続けてきた。なかでも、政治への批判的な参与に資する宗教的次元について説いた「市民宗教」論や、伝統の再解釈を通じて米国における倫理的個人主義の析出を試みた『心の習慣』は広く知られるところであろう。そして昨年には、80代半ばを過ぎてなお旺盛な氏の探究を凝縮した大著で、進化論的観点から「宗教」の意味・機能を再定義し、「枢軸時代」の諸宗教の比較を行った『人類進化における宗教』が刊行されたのである。同書の刊行を受けて企画された一連の来日公演は、いわゆるグローバル化する社会における市民社会と宗教の関係を主題としたものから、新著を踏まえて「宗教」の定義を捉えなおすものまで、ベラー氏の探究の歩みを総括しつつ、その中心的なテーマの今日的な意義を問うものであったと言えよう。

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さて、UTCPでの講演は、ベラー氏の歩みのまさに出発点に刻まれたひとつの名、丸山眞男をめぐるものであった。丸山がベラー氏の『徳川時代の宗教』に対して熱心な書評を寄せたことはよく知られている。そこで丸山は、同書における分析の厳密さを称えながらも、日本の近代化をめぐる一面的な評価や、その前提をなす宗教倫理についての楽観的な展望を厳しく批判したのであった。近代日本の政治-倫理的な困難と格闘する丸山にとって、世俗との錯綜した関係に置かれる「宗教の悲劇」(『徳川時代の宗教』)を甘く見積もることは、「怒りに近い何か」を覚えるべきものだったのである。とはいえ、この書評をきっかけに丸山と長年にわたる親交を結んだベラー氏は、その後の仕事で「倫理的な企図としてのモダニティー」の可能性と困難を一貫して追求することを通じて、丸山の批判に応え続けてきたとも言えるだろう。その意味で本講演は、氏の出発点に立ち戻って、丸山のファシズム分析とベラー氏自身が生き抜いてきた米国の歴史の姿を重ね合わせる、歴史的証言であるかのような講演となった。

 まずベラー氏は丸山の議論に寄り添いながら、「ファシズム」を範例的な(ひとつの)「近代」からの逸脱として位置づけるのでなく、むしろそれが様々な「近代」の追求の内から出来したという点を確認した。その際、「近代」を推進する契機として強調される「革命」は、普遍主義的なヴィジョンを掲げながら、つねに自らの「敵」を想定し、暴力を伴っても世界を刷新しようとする特異な想像力に基づいている。そこで氏が丸山の「ファシズム」に関して注目するのは、「反革命」(counter-revolution)という定義と「無法者」(out-laws)という担い手である。すなわち、それは「革命」に対立するというよりもむしろ随伴するのであり、「何かしらわけのわからないもの」(「ファシズムの諸問題」)の到来への不安に導かれた法-外な同質化のプロセスであるということだ。「ファシズム」は、「革命」の時代における「危機」に対する反応として捉えられるのである。以上の議論を踏まえてベラー氏は、一方に「無責任の体系」のなかでファシズムを加速させた「日本」を置きながら、丸山の議論における戦後「アメリカ」の記述の位置に注意を払い、そこに自らの歴史的な経験を重ねられた。実際冷戦体制が前景化するさなかに書かれた彼の議論では、アメリカは「国際的な反革命の総本山」と名指されていたのである。当時の「危機」にふれるなかで氏は、吹き荒れるマッカーシズムに抗することが、生きる場を奪われるに等しいほどの困難を突きつけたことを静かに語られた。わけても、「アメリカ」への忠誠を証立てるために “name names” つまり共産党に関係した同僚の指弾を強要されたという事実は、内にも外にも「敵」を見出すことで進行する(その意味で擬似「革命」的な)ファシズムの姿を雄弁に物語るものであっただろう。こうして「日本」と「アメリカ」を対置させて論じることを通じてベラー氏は、理念としての普遍と特殊を単純に区別することはできず、至るところに普遍へ到達しようとする格闘があることを説く。そして、だからこそグローバル化の進行する世界にあってなお倫理的なモダニティーを飽くことなく追求すべきことへの、衰えることのない強い意思を示して講演を結んだのである。

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 以上の情熱的な講演の後、三名のディスカッサントがコメントを加えた。まず高田康成教授(UTCP)は、思想的な「座標軸」(「日本の思想」)の欠如という視点から「日本」を表象した丸山と、宗教倫理の基盤を与える「枢軸」(the axis)を追求してきたベラー氏の思考の近似性を指摘し、「軸」の設定によって思想的伝統を捉えることの妥当性を問いかけた。そこでは、「軸」が可能にする体系的な比較の試みが称えられながらも、axial/non-axialという区分に収まらない文化接触のダイナミズムを語る言葉の必要性が示唆された。

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次に趙星銀氏(東京大学)は、丸山の伝記的事実にも目を配りながら、歴史家でもある丸山が「ファシズム」を論じる際にとった心理的かつ比較によるアプローチの意義、および丸山とマルクス主義の関係について問題を提起した。ベラー氏もまた、丸山の思考にマルクス主義が与えた影響はたとえ否定的なものであれ看過しえないことに首肯した。

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最後に井出健太郎(東京大学)は、丸山による「ファシズム」の定義が、内面から原理に関わる政治主体への彼の執念を示しており、そうした主体がプロテスタント的な「宗教」概念を前提としている可能性を問うた。そのうえで、「内面」的な信と「儀礼」(習慣)の両面から倫理の基盤を考察するベラー氏の思考との比較考察が試みられたのである。

 今回ベラー博士をお迎えしての講演は、講演後小林康夫教授(UTCP)がいみじくも語ったように、二つの意味で「奇跡」のようなものだったのかもしれない。まず、丸山の思考が国境を越えて応答を呼びかけ続けていることが示されたという点で。そして、書評から半世紀の時を経て丸山への応答を返しに来られたベラー博士の存在が。こうした場に立ち会えたことを喜びつつ、今度はこちらが応答の責務を果たせるよう努めていこう。

文責:井出健太郎(東京大学大学院博士課程)

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