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【報告】L2プロジェクト第4回研究会「グレーゾーンの子供/大人たち:発達障害とひきこもり」

2012.09.13 石原孝二, 稲原美苗, 共生のための障害の哲学

 2012年9月6日(木)、上廣共生哲学寄付研究部門L2「共生のための障害の哲学」プロジェクトの第4回研究会「グレーゾーンの子供/大人たち:発達障害とひきこもり」が開催された。講演者に大塚類氏(青山学院大学教育人間科学部准教授)と堀口佐知子氏(テンプル大学日本校准教授)を迎え、それぞれの講演者の発表の後、本プロジェクトのコーディネーターである石原孝二が「DSM-5ドラフトの自閉症スペクトラム概念について」と題したコメントを述べた。

 まず、大塚氏は「小学校におけるグレーゾーンの子どもたち」と題して講演を行った。大塚氏は、数年間にわたって都内のある公立小学校での学習支援ボランティアとして「気になる子」と接しながら、詳細なフィールド調査を行ってきた。現在、その小学校の普通学級には、発達障害の診断を受けている子どもだけではなく、発達障害の疑いがあるが診断を受けるまでに至らない子ども、被虐待の疑いのある子ども、複雑な家庭環境(養育基盤の脆い家庭)で育っている子どもなど、学習面や他者関係にさまざまな困難を抱えている子どもが多数いる。大塚氏はこうした子どもたちを「グレーゾーンの子どもたち」と呼び、具体的な事例を紹介しながら、それぞれの行動や他者関係を分析した。大塚氏は、研究者としての立場(その子どもにとって上下(親子・教師と児童)の関係ではない立場)を十分に活かして、子どもと向き合い、子どもとその環境を観察し、グレーゾーンにいる子どもたちの有り様について考察した。また、大塚氏は、複雑な家庭環境に育つ子どもたちが多く通う小学校の現状を見つめ、教師や親の立場を捉え直し、その子どもを取り巻く環境や障害の意味を再考した。

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 堀口氏はそのテーマを子どもから若者や大人へ移した講演を行った。「グレーゾーンにある若者・大人の「ひきこもり」:自立から共生へ」と題した講演は大塚氏の講演と関連性があるように思われた。堀口氏は、2000年頃から社会問題化されてきた「ひきこもり」と呼ばれる若者や大人に対する支援のあり方についての論議を、「障碍/非障碍」および「自立/共生」という枠組みで、文化人類学的に考察した。堀口氏の講演は、「ひきこもり」という曖昧なカテゴリーをどのように捉えれば良いのだろうかという問題提起に始まり、実際の支援の難しさや、「ひきこもり」という表現が登場した背景などにまで及んだ。2000年以降、若者の「ひきこもり問題」については、まず政府(厚生労働省や内閣府)が支援・評価のガイドライン(2001、2003、2010年)を作成し、実際の支援体制は主に民間の機関によって担われるようになっていった。さらにそれと並行して、次第に当事者を中心としたコミュニティ(ひきこもり業界)が作られていったという。この発表は、堀口氏が2003年以降「ひきこもり業界」の中で実践してきたフィールド調査や、メディアの言説分析を基にしていた。堀口氏によると、「ひきこもり」は精神障碍を含まない状態を示すとされているのだが、それが曖昧さを含んでいる表現であることから、この言葉はそれぞれの立場により多様に理解されている。つまり、精神医療従事者・支援者・支援機関・当事者のそれぞれがもつ「ひきこもり」の定義、その回復イメージ、支援・治療・当事者の目指す方向性はそれぞれ異なっているという。また、「ひきこもり」は障碍と非障碍のグレーゾーンに位置しており、「ひきこもり」を障碍とすべきという考えと、障碍とすることに抵抗を覚える両方の見方がある。堀口氏の講演の最後では、近年の「ひきこもり」の高年齢化が取り上げられた。近年ではこの高年齢化という傾向を踏まえ、就労支援等により「ひきこもり」を克服して経済的な「自立」を目指す方向性を再考し、社会福祉支援の充実や居場所の提供によって、グレーゾーンにいる人々が生活しやすいように「共生」を目指す動きも出てきているそうである。

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 両発表の観点から考えると、「発達障害」も「ひきこもり」も線引きが難しい現象なのではないだろうか。「発達障害」や「ひきこもり」のカテゴリーの中にいったん入れられると、カテゴリーに入れられる以前の状態には戻れないということになる。この研究会では、障害と非障害のより明確なカテゴリーをそれぞれ白と黒に見立て、白と黒の間の段階的な階調の色彩の部分(スペクトラム)をグレーゾーンという表現を使って説明していた。大塚氏の発表の中で感じたことは、「できるけど、やらない」のか、「頑張ってやっているのだけれど、障害のせいでできない」のか、子ども本人も、親も、教師も分かっていないという状況があるということである。当事者でも他者でも、障害の判断は難しい。例えば、ADHDの子どもは、衝動性が抑えられないために給食の配膳の順番を待てなかったり、集中力が持続できないせいで、教師の指示に従えなかったりすることが多いと聞く。些細なことで機嫌を損ね、わがままな子どもだと思われることもある。親の考え方、教師の考え方、また子ども本人の症状も多様である。その意味で、子どもの気になる部分を障害としてひとくくりにすることはできない。そして「発達障害」と同様に、「ひきこもり」もまた同じくひとくくりにして捉えることができない存在であるということが、堀口氏の発表の中では明らかになった。

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 日々の生き辛さを感じながらも環境に適応しようとしている子ども、若者、大人の姿を間近で見ると、彼らを特別扱いしてほしくないという思いと、適切な支援は必要だという思いの間で気持ちは揺れる。公的な支援が行われるためには、彼らに対して障害の認定をする必要性が生じてくる。そして、障害の認定や公的な支援を受けることが、「障害児(者)」として差別・特別視されることと背中あわせなのでは、と懸念する声もある。既存の福祉支援では、身体の欠損部位、機能の損失、発達遅滞の度合いなどに応じて障害の程度を認定し、それに即して支援を提供している。しかし、そうした認定は、生活実態なども含めた当事者の生き辛さや不便さを必ずしも考慮するわけではない。大塚氏と堀口氏の発表を聞いて感じたのは、一人ひとりの症状や暮らしている環境が多様な発達障害の子どもや「ひきこもり」の若者・大人の場合、診断名や障害認定をすることで一律に対応していては支援にならないということである。むしろ、当事者の生活環境全体をしっかりと把握し、そうした支援の必要性を私たち一人ひとりが認識することこそが、線引きによるカテゴリー化や差別を抑制し、共生できる社会を導くのではないだろうか。この研究会の最後には、石原がDSM(精神障害の診断と統計の手引き)自体も常に作り変えられていることに言及し、DSM-IVの中の広汎性発達障害とDSM-5ドラフトの中の自閉症スペクトラム障害との相違点を考察した。専門家のあいだではその診断基準をめぐる論争もあり、それぞれの診断基準の解釈によって障害の認知度も変わってくるとのことである。ここから、グレーゾーンにいる者たちに対しては、クリアな線引きが不可能だということが言えるのではないだろうか。

 グレーゾーンにいる子どもや若者・大人に携わる研究をしてきた大塚氏と堀口氏による発表は、「共生」の意味を再考する大きなきっかけになったように思う。グレーゾーンに引かれる「線」を本当の意味で消すには、そこに存在する子どもや若者・大人に歩み寄って、一歩ずつ距離を縮めていくことが重要だということを学んだ研究会であった。


(報告:稲原美苗)

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