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【報告】International Conference "Japanese Philosophy in the East Asian Perspective" at Taiwan University

2012.09.11 中島隆博, 石井剛, 高田康成

 2012年9月1日と2日、台北の台湾大学人文社会高等研究院で、「東アジアの視座からの日本哲学」をテーマとするシンポジウムが開催された。同高等研究院の黄俊傑院長をはじめとし、台湾、韓国、香港、日本から総勢22名が参加した。東京大学からはUTCPの高田康成氏と中島隆博氏、それにわたしのほか、林永強氏、朴祥美氏(いずれもPEAK特任准教授)、そして大学院生の井出健太郎氏(表象文化論博士課程)が出席した。黄俊傑院長以下、高等研究院の暖かく且つ周到なホスピタリティーのおかげで、わたしたちは会期中の滞在生活をきわめて快適に過ごすことができた。この報告のはじめに、まず黄院長および台大人文社会高等研究院の関係者各位に心からの感謝の気持ちを表したいと思う。また、東大からの参加となった林氏は、張政遠氏(香港中文大学)と共に、このシンポジウムの実質的なオーガナイザーであり、彼の強力かつ適切な会議構想とアレンジメントによって、これから報告するように、会議自体が実り多きものになった。併せて感謝したい。

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 さて、会議の初日が9月1日(関東大震災発生の日)であったことは全くの偶然であるが、初日の議論は奇しくも「3.11」を焦点として展開することになった。野家啓一氏(東北大学)による最初のキーノート・スピーチは「The Great Earthquake Disaster and Japanese View of Nature」というタイトルで行われた。野家氏は、和辻哲郎や寺田寅彦、清水幾太郎、福澤諭吉らを参照しながら、未曾有の大災害を引き起こした地震と津波からの復興の問題、そして、「明らかに人為的な災害」としての福島第一原発事故を論じた。野家氏は、「日本人の自然観」とそれに基づきつつ近代的に再解釈された功利主義的科学観に対する内省的考察の必要を訴えた。他方、野家氏の講演にカップリングされたもう一つのキーノート・スピーチでは、許祐盛氏(韓国慶熙大学)が「Two Kind Loves for the World」と題して、第二次世界大戦と3.11という、歴史的コンテクストのまったく異なる二つの事件を、日本の哲学的知性が直面した二つの「敵」として関連づけてみせた。許氏によれば、これらの「敵」に直面した日本の哲学的知は「世界に対する愛」を内包しているという。それは、西洋からやってきた啓蒙的理性に対する躊躇とアンビバレンスに支えられた感覚であり、それとは異なった、別の超越性に対する模索としてあらわれていると許氏は述べる。このようなスピーチの内容がまさに基調となって、初日のディスカッションは、「3.11」をモダニティ批判の歴史的ターニングポイントであるととらえようとする視点が目立つものとなった。
 二日目は、高田康成氏(「戰後日本哲學的結構」。講演は英語で行われたが、手元の資料には英文タイトルがない。しかたなく、中文タイトルを掲げておく。)と黄俊傑氏(「德川日本孟子學論辯中的管仲論及其相關問題」)という二つのキーノート・スピーチによって幕を開けた。高田氏は、加藤周一、丸山真男、井筒俊彦を取り上げる。そして、加藤の「今=ここ」を、丸山が希求した「Das Allgemeine」においてすくい上げていくための思考を続けることが、日本の戦後的知性から付託された課題であると述べた。黄氏は、江戸儒学が実は朱子学の正統を継ぐものではなく、むしろ朱熹らの性理学派とは対立的であると見なされている事功派の実学的思想傾向を強く示していることを明らかにした。この二つの報告は、一見全く異なってはいた。だが実は、丸山真男の江戸儒学論を媒介とする共通のアジェンダが通底していた。それは、初日に議論となった「政治性」を問題とする、日本におけるモダニティのプロジェクトを再検証することである。「3.11」の後における哲学的アクチュアリティの問題として、この「政治性」の重要性を強調した中島氏の報告(「對「古」的態度:論荻生徂徠」)は、初日と2日目を結びつける絶好の補助線であった。

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 初日のディスカッションでは、率直に言って、ある種のめまいのような感覚を覚えざるを得ない場面が多かった。日本哲学に対する関心の高まりは、東アジアの諸国家・地域が20世紀の最後の20年から今日にかけて、経済的に大きな力を持つようになったことと無関係ではないだろう。そうした関心が、「3.11」という事件を経て、改めて科学技術に集約的に体現するモダニティへの批判や懐疑によって加速したように見えた。かの「近代の超克」討論会からちょうど70年にあたる今年、このような多言語的な日本哲学論が展開されるであろうことを、70年前の彼らは想像しただろうか。しかし、「3.11」後の状況は単に科学技術や自然観、精神性の問題だけではないはずだ。加藤周一や丸山真男を悩ませた日本戦後社会の未成熟が、まさに原子力をめぐる政治の問題として、再度試されているのだと、わたしたちは知らされたのではなかったか。

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(「銀杏並木」ならぬ「椰子並木」脇にそびえる「傅鐘」。授業時間終了を告げる鐘の音が21回なるらしい。元学長の傅斯年が「一日は21時間しかない。残りの3時間は深く考えるために使うのだ。」と言ったのにちなむ。)

 日本哲学の語りが多言語化しつつあるこの状況は、日本哲学にとって好ましいことであるにはちがいない。だが、当然のことだが、70年前にそうだったように、それが「日本」のせり上げとして(今日の文脈では「日本」の名によって東アジアをせり上げるのだろうが)登場するのであってはならない。英語や中国語という共通言語を介することによって、個々の発言者が所属する母語のコンテクストが捨象されてしまう恐れは確かにある。一つ一つのコンテクストが相互に異なっていることへの配慮が必要なことは言うまでもない。だが、それを承認した上で、なおかつわたしたちは「日本哲学」を内部から徹底的に脱構築することによってしか、それに対峙することが許されないはずだ。

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 わたしは、この会議が台湾で開催されたことに大きな意味を感じている。それは幸せなことであった。文化的多様性をアイデンティティの基盤とする台湾の文化的環境にあってこそ、わたしたちはグローバル化時代のインペリアリズムとナショナリズムから危ういバランスを確保することができるように思う。だが、台湾社会の多様性は、20世紀のコロニアルな政治がそこに生活する人々に強いてきた抑圧とそれに対する抵抗の産物でもある。そこで今、日本哲学が語られている事実を前にして、「日本」のナショナリティを運命的に背負っているわたしたちは、何を、どのように発信していくべきか。この問いに答えを出すことは決して難しいことではない。繰り返しになるが、敢えてもう一度言う。「日本哲学」を取り上げる以上、それは徹底した脱構築(内部からの厳密な批判)としてでしかあり得ない。
 台湾への短い旅を終えて思い出されたのは、『アジアの孤児』(呉濁流作)のことだった。この小説の主人公、胡太明は植民統治下台湾で中国伝統文人家庭に生まれ育った青年として、郷土の台湾(それは抑圧と蔑視のシンボルとして彼を苦しめる)と想像の「中国」(希望とあこがれの投影先、だが時に彼を裏切る)以外に落ち着きどころのない深刻なアイデンティティ危機を生きた。「アジアの孤児」として生きざるを得なかった台湾人胡太明と同じ苦悩と絶望を感じることなく暮らしているわたしたちは、少なくともその限りにおいて幸せである。抗うことのできない「歴史の動力」は、20世紀、国家と結びついて人類史上最悪の悲劇と災厄をもたらした。小説の末尾で、胡太明は発狂の後に中国大陸へ渡って抗日運動に加わったことが示唆される。だが、想像の「中国」へ投奔した彼は、果たして、現実の中国によって暴力的に裏切られずに済んだであろうか。
 胡太明の絶望的な孤独に時代を超えて向き合うこと、それが脱構築としての「日本哲学」にかけられた責務だと感じずにはいられない。それはようやく緒に就いたばかりだ。

(報告:石井剛)

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報告者と報告タイトル

Keynote Speech I
 野家啓一(東北大学)「The Great Earthquake Disaster and Japenese View of Nature」
Keynote Speech II
 許祐盛(Woo Sung HUH, 韓国慶熙大学)「Two Kind Loves for the World」
Session I
 張政遠(CHEUNG Ching Yuen, 香港中文大学)「西田幾多郎的身體哲學」
 朴祥美(PARK Sang Mi, 東京大学)「The "Good Japanese": Wartime Cultural Mobilization and Theater Movement」
 林永強(LAM Wing Keung, 東京大学)「西谷啟治〈虛無主義對我們的意義〉的後三一一解讀」
Session II
 中島隆博(UTCP)「對「古」的態度:論荻生徂徠」
 廖欽彬(LIAO Chin Ping, 台湾中央研究院中国文哲研究所)「作為驚奇的偶然性:九鬼周造與田邊元的後現代思維」
 梁宝珊(LEUNG Po Shan, 香港浸会大学)「比較西田幾多郎與利奧塔 如何以“無”來面對現代性」
Keynote Speech III 
 高田康成(UTCP)「戰後日本哲學的結構」
 黄俊傑(HUANG Chun Chieh, 台湾大学)「德川日本孟子學論辯中的管仲論及其相關問題」Session III
 井出健太郎(東京大学)「Critique That Rescues Silence: "Faith" and "Doubt" in Yoshimoto Takaaki's Thought」
 馮顕峰(FUNG Hin Fung, 香港中文大学)「An Attempt on Nishida Kitaro's Philosophy of Dance」
 謝宛汝(SHIE Wan Zu, 台湾政治大学)「存在與時間:以西谷啟治《什麼是宗教》為主的探討」
Session IV
 石井剛(UTCP)「“經”和“天下”:評述平岡武夫的經史研究」
 王耀航(WONG Yiu Hong, 香港中文大学)「《「粹」的構造》與生命存在之詮釋」

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