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梶谷真司「邂逅の記録9:「研究・教育の一般的方法としての哲学的思考」というプロジェクト&「高校生のための哲学サマーキャンプ」というイベント」

2012.07.22 梶谷真司

 前回まで、国際哲学オリンピック(IPO)の報告をしてきたが、いよいよ来年の大会へ向けて、国内予選がスタートする。

 そしてその準備として、この夏8月22日と23日、「高校生のための哲学サマーキャンプ」が開催される。(リンク先PDF)

 IPOの代表選手を選考する日本倫理哲学グランプリ事務局が主催し、そこにUTCPが協力する。一人でも多くの高校生に来てくれればと思う。ただここでこのイベントの趣旨、位置づけについて、その背景とともに説明しておきたい。

 近年、「子どものための哲学(Philosophy for Children:P4C)」や中学高校における哲学教育の動きが広がっている。これは、一昔前からある素人や子供のためにやさしく哲学を教えるというのとは、似て非なるものである。

 こうしたやさしい哲学入門では、哲学という知的ジャンルは、前面には出ていなくても確固としてあって、それを分かりやすい形で伝えるものであって、あくまでいわゆる「哲学的問題」に読者を導くことに主眼がある。それは結局「哲学」の教育である。

 確かにP4Cや中高生の哲学教育でも、そうした哲学の問題を扱わないわけではない。善と悪や、真と偽、正義、道徳などはしばしばテーマになりうる。けれども、より重要なのは、自分の頭で考え、十分な論拠をもって明確で首尾一貫した思考・議論をすることである。いわゆるCritical Thinkingに近い。

 ここで「なーんだ、批判的思考なら、哲学が普段からやっていることじゃないか。だったらやっぱり哲学の教育なんだ」と考える人(哲学研究者)がいたら、それは勘違いである。哲学という学問にそういう面があることは否定しない。だが哲学というのは権威主義的な学問なので、多くの哲学研究者は、最初から権威に依りかかり、屈している。さらに、抽象的で難解なことばかり考えているので、もやもやグルグル考えているだけで、思考が不明瞭で一貫性があるのかないのか分からない人も多い。分かりにくいことを「深遠さ」と思い込み、門外漢に近寄りがたいことを特権視する輩までいる。

 そう、いわゆる哲学はそれでいい(ホントはそう思わないが、それでいいと思う人は勝手にしてくれればいい)。実際哲学は難解であり、非常に特殊なことを論じる。それは「倒錯した世界」であり、哲学者はあくまで「変人」である。だからやさしい「哲学入門」というのは、哲学という奇妙な世界への甘い誘惑であり、ひそかに変人を増やそうとする陰謀である。

 なるほど哲学には独特の魅力がある。それを多くの人が共有できれば、さぞやステキなことだろう。やさしい「哲学入門」が言うように、そういう魅力的な哲学の世界への入口は、そこかしこにあり、誰でもアクセスできる。だが、その先に行くかどうか、行けるかどうかは別問題である。そういう意味で、哲学は他のいろんな学問と大して変わらない。いくらやさしくても、「哲学入門」の先にあるのは、やはり「哲学」なのであって、それだけしかないのだ。それにみんな興味をもってくれと言うのは、哲学者のむなしい願望、もしくは破廉恥なわがままにすぎない。

 だが、昨今の「哲学教育」は、そんなものではない。その先に「哲学」があるわけではない。少なくともなくていい。では哲学教育が目指すのは何か。それは、自己と他者をより深く理解すること、そうしてそのつど自ら判断・行動する自発性、自律性、創造性を育て、それに基づいて社会秩序と相互交流を発展させていくことである。

 俗な言い方をすれば、グローバル化した社会の一員として必要な資質の育成である。これまでの常識や規範がたえず動揺し、再編を求められる中で、いかにして自分の立ち位置を定め、他者や社会と関わるかが問題なのだ。そのために必要な思考と議論の力を育てるのが、これからの哲学教育の目標である。

 そのさい教材になるのは、何もいわゆる「哲学的問題」でなくてもいい。どんな問題でもいいし、どんなネタであってもいい。だから哲学にまったく興味をもたなくてもいい(あとで「哲学って実は面白いんだな」なんて思う必要もない)。だからそれを教えるのは、別に倫理の授業でなくても、社会でも理科でも国語でも、どんな科目でもいい。どんなトピックでも、「自分の頭で考え、十分な論拠をもって首尾一貫した思考・議論をすること」はできるし、できるようにしなければならない。つまり「哲学教育」とは、「学習と教育の方法」の変革なのである。

 UTCPで私は新たに「研究・教育の一般的方法としての哲学的思考」というプロジェクトを開始する(一応大学でやることなので、「学習」ではなく「研究」と銘打っているが、結局は同じことだ)。一見地味でつまらなさそうなタイトルだが、個人的にはけっこうおもしろいと思っている――哲学を一部の“物好き”の手からあらゆる人のために解放する。それは哲学から“聖性”をはぎ取り、“俗化”させることでもある。こういう自己破壊的なところこそ、哲学の真骨頂ではないだろうか。

 その試みの第一弾として行うのが、夏休みの「高校生のための哲学サマーキャンプ」である。初めての試みなので、どうなるか分からない。だが、それも含めて楽しみである。

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