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東京大学-ハワイ大学夏季比較哲学セミナ―準備会(2)

2012.07.12 高山花子, 東西哲学の対話的実践

7月1日、東京大学−ハワイ大学夏季比較哲学セミナー準備会第二回が東京大学駒場キャンパスで行われた。梶谷真司「医療における現実の多元性と多層性——アーサー・クラインマンの現象学的・解釈学的医療人類学——」(『帝京国際文化』、帝京大学文学部国際文化学科編、第18号、67−88頁、2005年)を題材とし、夏季セミナー参加予定の全7名によって、前回同様、英語によるディスカッションを進めた。

現代の医療と関わる我々の現実はどのようなものなのだろうか。梶谷氏は、近代化された社会における医療が、患者―医者の二者間以上の広がりを持った関係性の中に生じる極めて複雑な構造を持っている事実を指摘する。そのような容易に単純化することの不可能な医療における現実そのものの性質を捉えるために、現象学的・解釈学的な医療人類学の視点—とりわけ、医療人類学研究の第一人者であるアーサー・クラインマンの方法論を手がかりとして導入する論文構成だ。

病や健康をめぐる医療の場において我々が経験する現実は、既に意味を帯びている。身近な直接経験可能なものに依拠し、なおかつ意味の観点から経験を見てゆく必要性がある点で、現象学的・解釈学的研究が医療人類学と結びついてゆく過程は、専門外の参加者にとって極めて興味深いものだった。シュッツの「多元的現実(multiple reality)」といった概念を導入しながら、日常的世界自身が多元的であるという医療の現場の切実な問題意識の下にクラインマンが展開した「ヘルスケア・システム」や「臨床的現実」といった概念に基づく思考は、図式化されながらも決して単純化を許さず、あくまで相互作用を重視している点で、個別的・主観的な現実の生成される過程を緻密に描き出したものだったといえるだろう。

ディスカッションにおいては、本格的な議論に入る前段階の概略の確認や訳語の共有に手間取るといった英語力の問題が少なからず生じたが、発言も多く、ホワイトボードを補助として利用しながら活発な議論が繰り広げられた。盛り上がったトピックのひとつとしては、クラインマンが提唱した「臨床的現実」が一体誰にとっての現実なのかという問いが挙げられる。患者自身や家族、友人といった「民衆セクター」と、医療機関のような生医学的な「専門セクター」、あるいは宗教や民間機構のような「民俗セクター」のせめぎ合いによって「臨床的現実」が生じるとするならば、その現実を捉える患者本人の主観性はどのように存在しうるのかということについて、様々な意見交換が行われた。また、梶谷氏が終盤において強く同調するクラインマンの概念「民衆的合理性」をなぜ合理性と呼びうるのか、と言った疑問もあり、これらを解決するためにはクラインマン自身の論考を検討するだけでなく、彼らが導入している現象学・解釈学自体についても十分な検討を行う必要が痛感された。とはいえ、現象学研究から医学史へと梶谷氏が関心を繋げてゆく根底にある問い―我々が生きる現実をどのように捉えるべきか―は十分共有できたように思われる。

次回のセミナーでは、より資料性の強い江戸時代の育児書に関する論文についてのディスカッションが予定されるため、再び言及される現象学との関わりを今回の議論も踏まえて比較検討できることが期待される。セミナー参加者に医学史を専門とする者はいないが、医療という無限に個別性を孕むテーマに様々な関心・専門領域から取り組むことで、我々が日常生活において人間をどう捉えてきたのかを、今一度多角的に問い直すことができるだろう。夏季セミナーにおける東西の人間観の比較という主題にも深く関わってくる内容であるため、英語を用いるからといって過度に簡略化することなく、充実した議論を今後も進めていきたい。

(報告:高山花子)

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