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【出張報告】UTCP-ヨンセ大学国学院合同ワークショップ第5回「批評と非人間」(於ソウル)

2012.03.10 中島隆博, 小林康夫, 佐藤朋子, 大橋完太郎

 ヨンセ大学国学院との合同ワークショップは、相互性・継続性・創造性・若手研究者の育成という点で、グローバルCOEとしてのUTCPがめざす国際交流のあり方をすぐれて体現してきた活動実践の一つである。

 このワークショップは2009年に始まって以来、春・秋の年2回という開催ペースを守ってきたが、第5回は、2011年3月下旬に当初予定されていたものの震災と原発事故の影響で繰り延べられ、各方面での調整ののち、ふた月半後の6月11日にようやくヨンセ大学キャンパスで開催の運びとなった。国学院院長のペク・ヨンソ氏、コリョ大学准教授(当時)でUTCP共同研究員のキム・ハン氏をはじめ、韓国側からの参加者諸氏とヨンセ大学の学生・院生の方々の細やかなご配慮により、当日は、設備の整った会場、韓国語と日本語の二言語で用意されたプロシーディングス、討議の場の通訳など、これ以上望むべくもない素晴らしい条件のもとで万事が滞りなく進行した。大変に遅ればせになりましたが、ここに記して深く感謝いたします。


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右からペク・ヨンソ氏、キム・ハン氏


 この第5回とともにワークショップ・シリーズは一つの区切りを迎えることになったが、同時に、問題意識の原点に立ち戻る機会を得ることにもなったように思う。振り返るならば、それまで不定期に行われていた交流が定時のイベントとして定着する機となった2008年末の小林UTCP拠点リーダーによるヨンセ大学講演のタイトルは、「〈人間の思考〉の責任」であった。そして今回は冒頭で、「〈ヒューマンの限界〉」と題された小林リーダーの基調講演によって人間の変容と境界の問題が提起され、つづく3つのセッションでは、「非人間」の問いを書き留める作業が6名の発表者によって引き継がれながら展開されることになった。実のところ、そこでなされたもろもろの鋭い指摘や深い洞察、また実り多い議論にもかかわらず、「非人間」は一つのテーマとしても、あるいは画定された一つのプロブレマティクとしても、ついに明確には立ち現れなかったように報告者には思われた。動物、怪物、機械、殺人鬼、死者、超人など、「非人間」の代わりに呈示された形象は数多く、またその豊かさが今回の第一の成果であっただろう。そのことを考慮するに、ワークショップを通じては、むしろ人文学 the humanitiesこそが、自らの彼岸から迫り来るものに対面するという可能性において問題にされ、問われ続けたのだと言うことができるかもしれない。

            
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 講演や発表の内容についてそれぞれ簡単に報告したい。
 小林UTCP拠点リーダーは「〈ヒューマンの限界〉――80年代日本の小説から出発して」と題された基調講演で、日野啓三の1985年の小説『夢の島』を取り上げた。東京湾に浮かぶ人工島を主な舞台とするこの作品には、「境」という主人公の名字、本物の人間以上に人間的な情感を発するマネキン、マネキンを飾る女とオートバイを駆る女という交替する二つの人格のもとで主人公の前に現れる女、「人間ハ入ッテハイケマセン」と記された貼紙、等々、境界とその揺らぎというモティーフをここかしこに読み取ることができる。夢の島の木々には、ナイロンの釣り糸に足を取られて死んだサギたちが逆さ吊りになっている。サギの死骸を埋めてやろうという少年の呼びかけに主人公が遅ればせに答えようとするとき一つの転回が訪れ、つづく終幕において主人公は埋葬の作業の途中に心臓マヒを起こして自らも木から逆さ吊りになって死を迎える。小林氏は、死者の埋葬という問題構成のもとで「アンティゴネー」と『夢の島』とを対比させながら、『夢の島』の主人公のその最後の姿に「父」の隠喩をみてとることを提案した。(サギの死骸に同一化しながらの)自らの埋葬を通じて、また自らの埋葬において――したがって非ナルシシズム的な「断念としての愛」あるいは「法の限界の外にある愛」において――、人格の統合を取り戻した女=姉をその弟たる少年に与え返す「父」は、あらたな法を打ち立てるのではなくして、むしろ「開け放しの扉」としての境界の形象を用意している。小林氏はまた、1980年代の日本文化におけるリアリティの変質という仮説を添えて、従来の「人間らしさ」の技術的な突破と(その技術上での突破に比しての)「人間」をめぐる思考の遅れという文脈のなかで「人間」の変容を考えるという、より一般的な展望のなかに小説の読解を位置づけた。


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 つづくセッション1「批評と戦争」では、まず、ヨンセ大学のイ・ハナ氏が「ポスト冷戦時代の過剰暴力と非道徳的国家――最近韓国映画の一傾向と関連して」と題した発表を行った。氏によると、近年の韓国映画の暴力性が危険水位に達したとする指摘が外国のジャーナリストから出されているが、「韓国社会の非人間化」の兆候として解釈することができるこの傾向は、冷戦後という時代の趨勢のなかで捉えるべきである。2001年以降に製作された戦争映画(『ブラザーフッド』、『小さな池』、『飽和の中に』)と、平時の生活を舞台とした映画(『追撃者』、『悪魔を見た』、『キム・ポンナム殺人事件の顛末』)とにおいてどのように暴力の発生が描かれているかを分析するならば、ヒューマニズムの擁護者としての地位から失墜した国家の姿を見いだすことができるのである。
 つづいて群馬県立女子大学の日高優氏が「イメージに傷つくということ――アンディ・ウォーホル作品に潜在する人間と非人間」と題した発表を行った。悲惨な光景を現場で直視することと、写真というメディアを介して見ることの差異に端的に感じ取られるとおり、距離と間接性の問題はメディアにとって本来的である。しかし、9.11同時多発テロのときに撮影された写真や第二次世界大戦時の報道写真がどのように取り扱われてきたかを顧みるならば、媒介性が還元されて、写真が見る人を傷つけるということがあると言わねばならない。日高氏によれば、ウォーホルの作品(「死と惨禍」のシリーズ等)にはこれに関してあるジレンマが内在しており、つまり、それは、一方で、死のイメージの機械的な大量生産を通じて、見ることと傷つくことの不全を明るみに出し、他方で、徹底した無意味さで見ることを打ち捨てることによって傷つける力を潜勢させている。ウォーホル作品が孕む人間と非人間のイメージをめぐる諸問題、なかでも、傷つくことの不全に傷つくこととして定式化しうる問題をさらに掘り下げるためには、人間の想像力の可能性と批評の役割をめぐって問いかけを重ねることが求められるのである。


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 セッション2「批評と資本主義/イデオロギー」では、まずヨンセ大学のソ・ウンジュ氏が「労働と貧困――人間の条件についての批判的省察」のタイトルのもと、『小人が打ち上げた小さなボール』(1978年)と『日曜日のすき焼き食堂』(2003年)という時代を異にする二つの小説の比較を中心とする発表を行った。氏によれば、前者において、貧困者は非標準的な身体的特徴(低身長、「せむし」、「いざり」など)と同時に道徳的な優越性とともにしばしば登場し、また、労働に従事するなかで病気や死という不幸に見舞われる。それに対して後者においては、事故や病気による労働能力の喪失が親密な生活環境をも蚕食してゆき、また、幾人の登場人物が労働意志の欠如から貧困、さらには自死に向かう。後者は、21世紀において貧困という条件が「人間らしい」生を不可能にする脅威として浮上してきたことを考えるようあらためて促すが、それだけでなく、貧困の多様性と資本主義システムの拡大に対する抵抗としての自発的貧困といった観点を提起しているのである。
 つづいて青山学院大学の竹内孝宏氏が「分離の機能と効果――日本の西洋近代演劇受容と劇団四季の方法」と題した発表を行った。氏によれば、1924年の築地小劇場の創設とともに本格的に始動した新劇が西洋演劇の翻訳上演において生み出した「新劇調」は、なによりもまず感情表現のためのものであり、心理主義リアリズムに立脚するものであった。その新劇への対抗において生成し発展してきたのが、1953年に発足した劇団四季と劇団を率いる浅利慶太の演劇言語論と、実践上でそれに対応する「母音法」である。母音法の核心をなす「分離」は、言葉の連続性をいったん分節したのち、分節された一つ一つの音節を時間軸にそってあらためて均等に並べ直すという作業に存するが、それは波及的に俳優の声と身体の「分離」、すなわち感情的要素を排した発音装置と踊る身体という分離をも引き起こす。現在の劇団四季のスタイルは、生成史の観点からすると、(新劇に比しての)現代口語演劇的性格と、方法的に分離・再統合された演劇言語という性格とをもつものとして現れる。


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 セッション3「批評とポスト冷戦時代の非人間」では、まず、韓神大学のキム・ジョンヨプ氏が「動物、俗物、怪物――金洪中の俗物化議論に対する批判的検討」と題した発表を行った。氏によれば、現代の韓国社会の構造や体制について、コジェーヴの人間/動物/俗物という区分を利用しての議論が近年盛んである。社会学者キム・ホンジュンは『心の社会学』(2009年)で、1997年に外国為替危機をきっかけとして真正性の体制から俗物性の体制へという変容が起きたと論じ、少なからぬ共感を集めてきた。イ・ギョンジェなど、彼の後続者たちのあいだには、俗物概念と動物概念をそれぞれ特定の社会階級の習俗を特徴づけるために応用するという試みもみられる。だが、動物化や俗物化を社会のうちで課している論理の分析がなおも不足しているのであって、それを補うためには、「人間」の論理的な対局に位置するものとしての「怪物」という範疇を導入し、「怪物」的なものの分析を押し進めることが重要である。
 つづいて神戸女学院大学の大橋完太郎氏が「非−人間の哲学はいかにして可能か」と題した発表を行った。氏は、人間概念の臨界点が現代思想の大きな争点の一つとなってきたことを指摘し、ポジティヴな「非−人間」の地平の開示に向けていくつかのテクストを読解した。氏によれば、デリダのうちには、人間の本質的な構造のうちに「人間の終わり」が埋め込まれているとする議論を、そして、ドゥルーズ=ガタリのうちには、他の個体との速度の差異からなるアレンジメントと各個体において存在する固有の強度(としての情動)とにもとづく「生成変化」の概念――主体にマイナーな別のものへと変容することを命じるもの――を見いだすことができる。痕跡なき回帰に向かうこと(デリダ)と、樹木状に組織されることがない直線であるかぎりにおいて「思い出」が記憶たる集積から逃れてゆくこと(ドゥルーズ=ガタリ)との交差において「非−人間」への生成が示唆されており、また、そのそれぞれに、ニーチェがいう「超人」の参照を読みとることが可能である。


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 3つのセッションののち、UTCP事業推進担当者の中島隆博氏、ヨンセ大学のソ・ヨンヒョン氏、ドングッ大学のアレクサンダー・ツァールテン氏をコメンテーターとして迎えてのディスカッションが行われた。三氏からはとくに、各発表で暗に陽に問われていた「感情」の位置や、「非人間」をめぐる曖昧さに呼応しているだろう「境界線上に立つ」ということについて練り上げるべき倫理、グローバル化を経験した18世紀ヨーロッパおよび当時のロマン主義と現在の社会的・思想的状況とのあいだにみられる類似点、大橋氏が差し出した「非人間」を論じる言葉が新しい人間の表象につながってゆく可能性、(日高氏の議論の一般化にもとづく構想として)無能力を極限にもってゆきそこから批評の可能性を開くという展望といった論点が呈示された。ディスカッションはさらに会場にも開かれたが、そこでは、韓国側の発表がたえず国家と政治の問いへの明示的な連絡を図ろうとしていたのに対して、日本側の発表ではそれがほとんど問題にならなかったという指摘が多くの人の注意を引いていた。


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 クロージング・リマークでペク・ヨンソ氏が述べていらしたように、ディスカッションは今回の限られた時間では到底尽くせぬほどの盛り上がりをみせ、またいくつもの論点がほとんど手つかずのままワークショップの締めくくりを迎えることになった。残念に思いつつも、この学術交流の場がもつ触発の力をそのことでますます強く感じた身として、この先に何らかの形で再開の機会があることを祈念したい。
(文責・佐藤朋子)

 


 

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