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【報告】高橋睦郎講演会「三島由紀夫と私と詩」

2011.11.04 小林康夫, 小松原孝文, セミナー・講演会

2011年10月25日(火)、本学駒場キャンパスにて、高橋睦郎講演会「三島由紀夫と私と詩」が開催された。会は、高橋さんとUTCPの拠点リーダーである小林康夫との対談で行われた。

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まず、海外の研究者の間でも関心も高い三島由紀夫について、高橋さんにシャーマンとして語ってもらいたいという要望が小林からあった。

高橋さんによれば、三島との交流のはじまりは、高橋さんの詩集を読んで、三島が職場に電話をかけてきたことだという。ぞんざいさと丁寧さの織り交ざった口調で、その日のうちに三島と会うことが決まった。場所は銀座の高級中華料理屋で、そのとき高橋さんは次の詩集に三島の言葉を載せることを約束してもらい、その後三島から手書きの原稿が届いた。ただし、それはすべて男色の話であったが……。

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三島については、天皇制の信奉者というイメージがあるが、高橋さんによれば必ずしもそうではないという。三島は正統性を唱えるようでありながら、どこかでそれは「嘘」だということを残しているのである。また、市ヶ谷駐屯地での割腹自殺についても、高橋さんは、肉体を美しいままにして亡びるには45歳という年齢がぎりぎりだったのではないかという。三島は本当に死にたいと思っていた人で、生きている実感がもてなかったのではないかと高橋さんは考える。

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そのような高橋さんにとって、三島は恩師でもあり、また反面教師でもあるという。三島は、好きでもないのに女性と結婚し、二人の子どもを残した。しかも、自決後も子どもたちが二十歳になるまで贈り物が届くよう手配しており、それはもはや愛情というよりも、一種の呪いではないかと高橋さんはいう。一方で高橋さんは、表現する力のある限り生きていきたいと語る。それは自分が詩人で、三島が詩を書かなかった(書けなかった)ことと関係があるのかもしれないと高橋さんは説明する。

高橋さんは、「ポエジー」(実在)と「ポエム」(詩作品)を区別し、「ポエジー」から送られてきた何かを言葉にしたものが「ポエム」だという。ただし、ポエムはいつもポエジーの受け取りそこないであり、捉えそこないであって、そこには必ず誤差が潜んでいる。しかし、詩人はそのようなものであり、自分はいつも主体ではなく受け手だという自覚があると高橋さんはいう。

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ところが、三島はすべてにおいて主体性をもたなければならない人だった。それは肉体的なコンプレックスをはねかえすということとも関わりのあることだが、とにかく三島においては受動的な立場にいることは容認しがたいことだったのである。これについては小林より、三島の「豊饒の海」について応答があった。「豊饒の海」は、3巻までは完璧に自己構築しておきながら、4巻ではそれを崩すような動きが見られる。そこには主体であり続けることができなかった惨状が露呈されているのではないか。

他にも、高橋さんより、文学史の話や三島に関する舞台裏の話など、普段聞くことのできない多くのお話をうかがうことができた。最後に「願わくは」という高橋さんの詩をご自身に朗読していただき、大きな拍手につつまれながら会は幕を閉じた。

(小松原孝文)


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