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【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」第14回,第15回セミナー

2011.03.23 └セミナー, 齋藤希史, 裴寛紋, 守田貴弘, 近代東アジアのエクリチュールと思考

第14回のセミナー(発表12月10日、討論17日)は「日本における構造言語学の受容と文字の問題」と題し、アロツ・ラファエル アインゲルさん(学際情報学環・博士課程)による発表と、刀根直樹さん(比較・修士課程)、コール ヒタさん(比較・研究生)、山本嘉孝さん(比較・修士課程)の3名によるコメントで行われました。

第15回セミナー(発表1月7日、討論14日)は「近代日本の文字改革論における漢字論と中国像――明治期を中心に」と題し、陳月我さん(法学部・客員研究員)による発表と、柳忠煕さん(比較・修士課程)によるコメントを中心に行われました。

第14回

◆発表の部(12月10日)では、日本で初めてソシュールの言語学を紹介した神保格(1883-1965)の言語理論を検討し、そのなかで文字にかかわる諸問題に焦点をあてた。神保格『言語学概論』(1922年)は、言語の抽象的側面(「言語観念」)と具体的側面(「言語活動」)とを区別しており,日本において最も初期の構造言語学の枠組に従った著作である。発表者は、ここで神保の用いた「抽象文字」という術語が、「書記素(グラフェーム)」の概念に対応するものであると指摘した。文字を単に音声の再現とするソシュールの立場から離れ、神保は、文字を言語記号の構造の根本的要素として捉えていた。そして、音声と文字の関係を述べるにあたって、速記録や蓄音機の例を媒介としたため、必然的に「文字を不完全なもの」として捉えることになってしまった。最後に発表者は、神保の理論を取り入れて構造言語学的な文字論を試みた金田一京助及び橋本進吉との比較により、ソシュール受容において近代日本の言語学者たちが抱えていた問題の一端を示した。

◆討論の部(12月17日)では、3人のコメンテーターがそれぞれ、①神保格の文字論における恣意性の問題並びに音声と文字との葛藤関係、②ソシュールの記号の体系において意味(シニフィエ)と音響イメージ(シニフィアン)との関係では説明できない漢字の問題、③共時性(シンクロニシティ)と通時性(ディアクロニシティ)の問題について言及した。これらのコメントを踏まえ、現代言語学における文字の扱い、文字を含めた一般言語学の可能性などについて議論が行われた。
神保の研究は、ソシュールのような一般言語学というよりは、「国語学」的スタンスだったのではないだろうか。日本語を離れては言語学を論じられない点に、神保はどれほど自覚的であったか、という質問もあったが、彼はあまり意識的ではなかったようである。神保の場合、ただソシュールの枠組に日本語を適用しようと努力したのだ、と発表者は答えた。恐らくそこに、ソシュールにとっては付随的問題であった符合論が、日本の学者にとってはむしろ中心的な論点の一つとなった要因があったかも知れない。

第15回

◆発表の部(1月7日)では、明治初期の文字改革論において、とりわけ漢字をめぐる議論に注目し、そこに絡んでいる否定的な中国像を問題にした。「ローマ字論」「かな文字論」「新国字論」「漢字制限論」といった文字改革論の多様な視点にもかかわらず、漢字に関しては一様に廃止を主張する硬直性が窺われる。そこでは,漢字は学習に時間のかかる「非能率」「非文明」「非競争」的な文字とされ、日本への悪影響が盛んに唱えられた。ただし、これらの論者自身は漢字漢文(そして英語)の使用者であり、漢字廃止論はあくまで教育の場を想定した言説であったことが注意される。現に彼らによって、漢字教育のシステムが整備された側面は看過できず、結局のところ、政策的には漢字廃止の施行につながることもなかった。むしろ多線的な表記論は増える一方で、表記の一本化の方向へは進まず、現行表記法に至ったのである。

◆討論の部(1月14日)では、明治期の漢字教育と対照的であったローマ字教育と,中国における文字改革の問題などについても補足があった。とくに「国語」が制度的に作られる過程との関係で漢字論を検討することが加われば、従来の漢字論を表記論の問題として発展させることができそうである。文字論と文字政策論との関連を明らかにすることの重要性が、議論の中で浮き彫りになった。
一方、コメンテーターが参考ケースとして紹介した、19世紀後半の朝鮮におけるハングル論(漢字語の純ハングル化)をめぐって活発な質疑応答が交わされた。具体的には、日清戦争後の1894年に行われた公文書のハングル化をはじめ、漢文で書かれた『漢城旬報』と,それに次ぐ純ハングル新聞『独立新聞』(1896年刊行),これらに対抗する漢文・国漢文(ハングル漢字交じり文)の『皇城新聞』(1898年刊行)の問題などである。さらに、1945年から1950年にかけてのハングル論、すなわち、「国語」の脱階級・民主化の試みとしての「国字簡素化」運動や、ハングル専用論と漢字表記併用論との拮抗(採択されたのは後者)、そして現在に至る「ハングル表記(綴字法)統一案」などがあげられた。いずれも戦後日本の「国語」システム同様の、というより充実にそれにならって実現された「国語」政策であった。この朝鮮の事情をめぐっては,後日,金成恩さんを招いて改めて議論することになった.


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