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【報告】国語に思想はあるか? ー最終回ー

2011.01.31 └レポート, 齋藤希史, 裴寛紋, 守田貴弘, 近代東アジアのエクリチュールと思考

2010年12月17日,安田敏朗先生を迎えての連続セミナー「国語に思想はあるか」の最終回を行った.

まず,安田先生がこれまでに論点となってきたキーワードを並べ,議論を振り返った.

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この連続セミナーでは,国語を「思想から制度へ」と捉える方向と,制度としての国語を「思想化」するプロセスを見てきた.制度は移植可能なものであり,国語を制度として捉えることで,植民地で日本がやったこと,そして戦後,言語は変わったが制度が残った側面を捉えることも可能になる.そしてその制度を思想化するには,国語は「母」や「血」といった避けられない,自然なものとして語られる.

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配布資料の最後には「おまけ」として、安田先生執筆の『日本語学大事典』(未刊)「国語」項が付けられていた.セミナーの結論に代わるものでもあるため,ここでもその一節をお借りしたい。

「国語とは、……制度のひとつであり、国家の統治原理が反映されるもの、……きわめて人工的であるにもかかわらず、場合によっては過度の精神性が国語に付与され、国民の始原がそこに含まれるという「自然な」言語であるという装いが施される。その際に民族性や歴史・伝統などが意図的にもりこまれていくことが多い。」

上田万年は,まさに上記のような「国語」制度(規範)の思想化・自然化・身体化を実現するために努力していたのである.

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言語の「自然さ」は誰が決めるのだろうか.制度としての自然さ,ネイティブらしいという意味での自然さなど,いろいろなレベルで言語の自然さは語られる.そのそれぞれが政策だけではなく,言語教育や言語学といった学問の場でも顔を出すのだが,やはり「自然な言語などない」というのがセミナーの1つの重要な結論だったように思われる.

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近年の言語教育における文法主義から文化主義へといった変化を、「自然性」の復活の傾向と見るべきかどうか.そして,上田以降の世代にとっての「国語」観,また「国語愛」と表裏一体の関係にある「方言愛」についても議論は続いた.多岐にわたる論点は予定時間内に到底終わる話ではなかったが,どうやら戦後の「国語」思想の問題に視野を広げねばならないといった課題を残して,連続セミナーは一旦締めくくられた.

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