Blog / ブログ

 

【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」第9回セミナー

2010.11.16 └セミナー, 齋藤希史, 裴寛紋, 津守陽, 近代東アジアのエクリチュールと思考

第9回目のセミナーは「沈従文における〈郷土〉の表象――近代文学による「原=中国」像の構築――」と題し,津守陽さん(教養学部非常勤講師/UTCP PD)による発表と,宮田沙織さん(比較・修士課程)によるコメントを中心に行われました.
(発表6月18日,討論7月2日)

発表の部(6月18日)では,近代中国の作家沈従文(1902‐88)が描いた故郷,湘西をめぐる従来の言説を問題にした.従来,辺境世界が国籍や風土の違いを超えて「太古の世界」として受け取られ,また「原=中国」として高く評価される傾向にあった.沈従文の作品が30年代に盛んだ〈郷土文学〉というジャンルに位置づけられることは確かであるが,発表者の問題意識は,そのカテゴライズ自体への疑問から始まる.具体的には,黒と白の少女形象や人物呼称,副詞による時間表現などに着目した細部の分析によって,沈従文の小説には一般化された〈郷土〉像に回収されない部分が多いと指摘した.恐らくその点が彼の郷土意識と文学表現の変遷(次第に郷土世界から遠ざかっていき,作品数も減少した)を考える際に重要な鍵となるだろうという展望をもって一旦発表は終わった.

討論の部(7月2日)では沈従文に見る二つの志向,すなわち,一方では近代の〈郷土〉言説に加担している側面と,もう一方では理想的郷土像に回収されることを拒む側面が、実は相反するのではなく、いずれも広い意味では〈郷土〉をより理想化・神秘化する言説ではないかという指摘がなされた.たとえば,ヒロインに与えられた「破滅的な力」や「内面の空白」などは「異質な不可解さとそれが故に生ずる魅力」(『お菊さん』の例)として考えれば,むしろ神秘化を図る例となる.同様に,極めて抑制した語りの手法はあえて発言しないことで神話的世界を守ろうとする表現法(小林秀雄「人形」の例)に似ている.
以上のコメントに対する発表者の応答では,作者の問題として考えた場合,沈従文の特徴的な語り方が書き手としての戦略であったかどうかまでは疑問であると断りながら,ただし彼にとっては郷土を描く表現の試行錯誤が最終的に〈郷土〉概念を回避・解体させた一要因であるという立場を再確認した.なお,コンテクストを顧慮しても,当時ほとんどの〈郷土文学〉者が現実の政治に縛られていた状況において,彼ほどテクストの中で闘っている作家はいないと付言した.
また,他のコメント・論点としては,30年代日本文学における「故郷回帰」現象との関連や,近代文学の「水」表象などについても議論が行われた.「原=日本」を求める言説において、「日本」とは一つの巨大な〈郷土〉として認識されており,その意味では同質の問題性を見ることができる.

(文責:裴寛紋)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」第9回セミナー
↑ページの先頭へ