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【UTCP Juventus】西山達也

2010.09.07 西山達也, UTCP Juventus

【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。今回は西山達也が担当します。

 専門は哲学です。修士論文以来、哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)における「翻訳」という主題を中心に研究を継続し、この成果をまとめて8月に博士論文を提出しました(ストラスブール大学)。博士論文と並行して、ドイツとフランスの思想交流を背景とするハイデガー思想のフランスにおける受容、といっても直接的な受容にとどまらず、哲学・文学・芸術・人文社会科学の諸領域に与えた影響関係をめぐる研究にも着手してきました。

 こうした研究の出発点にあるのは、哲学が言語活動を通じた思考の変形可能性に対していかなる自己意識を持ちうるのかという問い、すなわち「哲学にとって翻訳がどのような意味をもつか」という問いへの関心です。哲学は、伝承されたテクストや概念をたえず翻訳してきました。既存の翻訳を批判し、新たな翻訳を提示することで、思考の体系そのものに根本的な変革を生じさせる試みが続けられてきました。

 20世紀の哲学史においては、「生の哲学」と解釈学の批判的継承の文脈から、翻訳と歴史性のより緊密な関連が思索されるようになります。これに伴い、翻訳は個別の異言語間の移し変えである以上に、その移し変えを通じて歴史的なものの意味に触れる試みと見なされます。なぜなら翻訳は他なる言語との隔たりのうちで行われるものと考えられますが、この隔たりは、突き詰めていえば異なる時間において生きられた言語との隔たりに他ならないからです。こうした意味で翻訳とはつねに現在時という特異な瞬間において行われるものであり、それゆえ画期的(エポックメイキング)なものであることを要請されるのだと言えるでしょう。歴史的な存在としての哲学は、翻訳を問うことを通じて、自己自身を批判的に再規定することになります。

 しかしながら、翻訳に対する思考の側からの批判も存在してきました。しばしば翻訳は、考えない人間、あるいは考えられない人間のする仕事と見なされます(苦笑)。例えばモンテスキューの『ペルシア人の手紙』には「20年間かけてホラティウスを翻訳した」という人物が登場しますが、この翻訳者に対して、幾何学者は次のように驚いてみせます。「20年も前からあなたは思考していないのですか! あなたは他人に代わって語り、他人があなたの代わりに思考しているんですか!」 ここでの幾何学者は「思考」の側の代表者です。翻訳が「思考しない」のが何故かといえば、それは「他人が思考したこと」をより透明に伝達するためです。翻訳行為の根幹をなすこの無思考ゆえに、翻訳は自己自身を規定することに大きな困難を伴うことになります。翻訳は、自らの実践知を思考に委ねる代わりに、むしろ半ば「勘」に頼る技法としてとどまります。翻訳をめぐる思考は、したがって、多くの場合翻訳の外からなされることになります。キケロや聖ヒエロニュムス以来、翻訳論を執筆するのは、哲学者や宗教家、批評家、言語学者たちでした。翻訳をめぐる思考は、奇妙な沈黙状態にあったといえるでしょう。

 この種の「翻訳=無思考」のテーゼを反転させて、きわめて明確に、「思考する翻訳」の可能性を探究したのがハイデガーです。翻訳は、「思考」の対象になるだけでなく、それ自身で思考し始めます(ここでハイデガーは実際に思考している「翻訳者」のポジションに関しては言及しようとしないのですが…)。「翻訳」という事象は、最も広い意味において、思考の動態そのものを指し示すことになります。そしてハイデガーは哲学という思考の営為全体が、一つの翻訳の歴史であると考えます。しかもここでの翻訳は、自らが歴史を構成するものであることを自覚することによって、もはや個々の概念やテクストの「意味」を忠実に翻訳するのではなく、むしろ翻訳の積み重なりとして生成してきた歴史の意味を忠実に翻訳するという課題を負わされます。こうした全歴史を引き受ける役割を担わされた「翻訳」、つまり自ら全歴史の意味を丸ごと翻訳しなおす最終的な翻訳を、ハイデガーは「終末論的な翻訳」と呼びます。

 (一見奇異なものと映るハイデガーによる翻訳の歴史的プロジェクトですが、これは必ずしもこの哲学者にのみ特有の考え方ではありません。プロテスタント神学者のルドルフ・ブルトマンや、カール・レーヴィット、ハンス・ヨナスといった思想家たちが、それぞれ脱神話化、救済史、グノーシス主義、終末論、といった主題をめぐって展開した研究とも連動するものでもあります。歴史哲学的なパースペクティヴをめぐっては、すでに本年3月に、森田團・磯忍両氏とUTCPワークショップ「歴史哲学の仮晶」を開催しました。)

 以上の関心にもとづき、博士論文ではハイデガーが「翻訳の問い」にどのように取り組んだかを考察しました。初期ハイデガーは、一方でアリストテレスの精密な読解を試みながら、他方で、新約聖書からアウグスティヌス、ルターに至るキリスト教神学の再解釈に取り組みます。二つの作業は別個のものではなく、それぞれ補完しあうものです。アリストテレスとパウロの書簡、あるいはルターの用語を相互にパラフレーズしあうことで、最終的に『存在と時間』へと結実する思考が生みだされます。博士論文では、この初期のハイデガーの翻訳作業の射程を明らかにしたうえで、1930-40年代に試みられたギリシア語テクストの翻訳(ソクラテス以前の思索者の断片、ソポクレスの翻訳)へと視野を転じ、翻訳の主体、作品と断片化の要請、神話といった問題がどのように考えられているかを分析しました。その際にハイデガーがつねに念頭に置いていたのが詩人フリードリヒ・ヘルダーリン(1770-1843)によるギリシア語テクストの翻訳作業であり、この詩的翻訳に対するハイデガーの「スタンス」もあわせて検討しました。初期から後期に到るハイデガーのコーパスを貫く問題に関して一定の見通しを示すことができたと自負するところです。

 今後の研究の展開としては、第一に、翻訳の創設的契機、すなわち翻訳における作品化の契機、第二に、翻訳における作品解体、あるいは脱作品化の契機という両側面に関して研究を拡張します。第一の側面に関しては、ピエール・クロソウスキーによるウェルギリウス『アエネーイス』の現代語への翻訳、第二の側面に関しては、例えばジャック・ラカンによる『アンティゴネー』解釈・翻訳、そしてラカンによるハイデガー「ロゴス」論文(1951)のフランス語翻訳を再検討する予定です。前者からは、翻訳のローマ的概念を範例として翻訳における創設的模倣の意味を考える手掛かりが得られればと思います。また第二の側面は、モーリス・ブランショが「作品の断片的な要請」と呼ぶ主題とも関連づけながら、翻訳と思考、そして歴史をめぐる研究の地平を拡張できればと考えています。

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ラファエッロによるアエネアス(《ボルゴの火災》、1514年、ヴァティカン美術館)

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