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【報告】国際シンポジウム「エドゥアール・マネ再考――都市の中の芸術家」

2010.07.07 三浦篤, 小泉順也, イメージ研究の再構築

2010年6月27日(日)、国際シンポジウム「エドゥアール・マネ再考――都市の中の芸術家」が丸ビルホールで開催された。

このシンポジウムは「マネとモダン・パリ」展(7月25日まで)を開催中の三菱一号館美術館とUTCPの共催で、日仏美術学会の後援、読売新聞社とNHKプロモーションの協力、財団法人吉野石膏美術財団の助成を受けて実現に至ったものである。具体的には、西洋近代絵画の開祖に位置づけられ、今なお議論の尽きることのないエドゥアール・マネ(1832-1883)を、19世紀後半のパリという時代的枠組みの中で検証しようとする試みが展開された。

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【会場入口】

朝10時から夕方6時を越える長丁場にもかかわらず、事前受付の定員250人は早々と埋まり、会場には午前中から多くの聴衆が集まった。展覧会の関連イベントという性格上、今回の国際シンポジウムは研究者のみならず一般の人々にも開かれた場とすることが目指されていたが、美術館と大学機関が協同することで、これまでUTCPと接点のなかった方々にも参加していただくことができた。

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【会場風景】

第一線で活躍されている5人の研究者の発表と1時間半に及ぶ全体討議で構成された当日のプログラムは、高橋明也氏(三菱一号館美術館館長)の「空間と人物――マネの造形文法をめぐって」と題した発表によって幕を開けた。当事者しか知りえない展覧会にまつわる興味深いエピソードに触れながら、高橋氏は1860年代の主要作品に焦点をあてた。人物を描いたマネの作品は、「肖像画」や「風俗画」といった既存の絵画ジャンルに収まりきらないことが往々にしてある。こうした逸脱に言及しながら、広義の「人物画」という枠組みを設定することで、マネを再考しようとする試みがなされたのである。ちなみに質疑では「人物画」という用語法をめぐって議論が交わされたが、会場の高階秀爾氏(大原美術館館長)の貴重なご指摘により、サロンなどの公的な場では存在しなかったものの、完成作に至る過程の人物表現を「人物(フィギュール)」と呼んでいたことが確認された。

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【司会を務める高橋明也氏】

続いてカロリーヌ・マチュー氏(オルセー美術館主任学芸員)が「マネの時代におけるオスマンのパリ」を取り上げ、同時代の貴重な写真や地図資料を紹介しながら、急速に変貌を遂げていた第二帝政期のパリと、マネを含めた同時代画家が都市を描くときの制作方法を具体的に論じた。簡単に要約するならば、モネ、ルノワール、カイユボットなどの印象派の画家たちは具体的な建造物やモニュメントへの関心が希薄であったのに対して、マネは新旧がせめぎあう都市の両面に興味と愛惜の念を抱いており、ジャン・ベローやデ・ニティスとも異なる態度で、人々の生活に根ざした都市から新たな革新的なイメージを創造した点が大きな特徴であると指摘された。

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【全体討議でのカロリーヌ・マチュー氏と三浦篤氏】

午後のセッションに入ると、マネに関する数々の重要な展覧会を手掛けてこられた美術史家のジュリエット・ウィルソン=バロー氏が、「マネの《パリ生活情景》――アトリエからアトリエ」と題して、パリ右岸の8区、9区、17区の中で移動を繰り返したマネのアトリエの足跡を丹念にたどっていった。アトリエの間取りや窓の位置といった細かい点は、現場を知らなければ指摘はできない。さらには、アトリエは試行錯誤が繰り返された実験場で、残された資料や画面中に記された年代だけで制作年代の特定はできないと強く主張されていたように、通説に対しても歴史的検証を怠らない研究者としての誠実な態度が全般を通して伝わってきたのである。同時にまた、X線写真による分析などから、チームの協力によって研究を進めていくことの重要性にも触れられた。

三浦篤氏(東京大学教授、UTCP)の発表「《フォリー・ベルジェールのバー》再考」は、マネ芸術の集大成と位置づけられる最晩年の作品を分析したものであった。これまで現実と鏡像との不整合やバーメイドの曖昧な表情に対して、何らかの合理的な説明を加えようと、様々な解釈が提出されてきた。しかしながら、三浦氏は現実との矛盾を意に介さず、多義的な解釈を誘発するマネの意図をそのまま受け入れることを選択するという。つまり、これは別個の時空間のイメージが併存した人為的な画面であり、無表情な表情のバーメイドと後ろ向きの鏡像は女性の公私の両面を表していると主張するのである。そして、マネが敬愛するベラスケスの《ラス・メニーナス》との関係において、2つの作品がレアリスムを体現する絵画芸術の頂点と臨界点に位置していると結論付けたのであった。

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【長谷川祐子氏とジュリエット・ウィルソン=バロー氏】

掉尾を飾ったのが長谷川祐子氏(東京都現代美術館チーフキュレーター)の発表「マネと現代アート」である。現代美術の重要な展覧会を手掛けてこられた長谷川氏は、マネの作品の特徴は非常に洗練された現前性にこそあると論じた上で、研究者ではなくアーティストの側からのマネへのアプローチを、カナダ出身のジェフ・ウォール、ユダヤ系アメリカ人のラリー・リヴァース、日本の福田美蘭などの作例を通して示した。ピカソのパロディは有名であるが、西洋近代美術のスキャンダルの祖型として、今なおマネが参照され続けている現場を目の当たりにしたことで、マネが歴史に刻んだ存在感を思い起こす貴重な機会となった。なお、発表中に言及のあった福田美蘭氏の《帽子を被った男性から見た草上の二人》(1992年、高松市美術館)は、新宿の損保ジャパン東郷青児美術館の「トリック・アートの世界展」で展示されている(7月10日-8月26日)。

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【全体討議の様子】

全体討議ではマネに対する率直な疑問の数々が提起された。ここではその逐一を報告する余裕はないが、マネならびにマネ芸術を形容すべく発せられた言葉の数々を列挙したい。「近代人の孤立」「メランコリー」「ダンディ」といった特徴に加えて、「さりげなさ」「自由な形態の操作」「ストーリーの不在」などの造形的な視点からの指摘、さらには「ズレの感覚」「英雄的行為」「クール」といったコメントが寄せられたが、どのような表現が与えられようとも余すところなくマネを捉えているとは言い難い。結果として、マネの理解や解釈は決して一つの像を結ぶ事はなく、終わりがないことが再確認されたのであった。今回のシンポジウムで印象に残ったのは、午前中から様々な質問がフロアから出たことである。「マネ・フリーク」を自称する人々が集まり、それぞれがマネへの想いを熱く語るなかで、今なお色褪せないその魅力が改めて浮き彫りになったといえよう。

(小泉順也)

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