Blog / ブログ

 

【報告】UTCPレクチャー「「よるべなさ」再考ーフロイトにおける生物学主義の展開と転回」「ヴィクトル・ユゴーの作品における意識と無意識」

2010.06.21 佐藤朋子, 数森寛子

UTCPでは所属若手研究者による講演会シリーズを始めました.題して「UTCP研究員による研究発表+議論シリーズ」です.2010年6月8日の第1回目は中期教育プログラム「精神分析と欲望のエステティクス」に所属しているふたり,佐藤朋子さんと数森寛子さんに研究発表をお願いしました.

佐藤朋子さんは「『よるべなさ』再考—フロイトにおける生物学主義の展開と転回」というタイトルで、フロイトの「よるべなさ」という概念を細かく論じました。以下、佐藤さんによる発表のまとめです。


100608_Sato_Kazumori_Photo_01.jpg

「よるべなさHilflosigkeit」は、ドイツ語で一般に使用される語だが、フロイトの著作(1893-1938)では、もろもろの欲求(渇き、飢えなど)をみずから満たすことができない乳児の無力さをとくにいうためにしばしば用いられる。フロイトは、よるべなさ、助けの介入、介入に引き続く満足体験という3つの契機からなる出来事を上演しながら、満足体験の反復たる「願望」の発生を、ひいては心的装置の発生を示しあらわす表象を錬成し、呈示する。従来のフロイト研究の大半は、その理論的表象の錬成のなかでフロイトがとる所作のいくつかを、既定のディシプリンとしての生物学が提供する知への依拠と解釈している。その解釈は、ある場合には、精神分析の理論としてのメタ心理学を、19世紀の自然諸科学の理論を変装させたもの、ないし延長させたものとみなす結論(Amacher,Sulloway)に通じている。別の場合には、生物学的な言葉使いと同時に性欲動のいわば自然発生的な観念を排除したうえで他者の問いを十全に分節化しようとする試み、換言するならば、ひとつの他者論の完成を目指す試み(Laplanche)を招き寄せている。

しかしながら、フロイトの思考の転機に注目した別の読解も可能である。「科学心理学草稿」(1895)は、心的生の最初の時間における(よるべなさに対する)助けの介入という観念と同時に外界の問いを定式化する。それに対して、『夢判断』(1900)は、二次的な時間、つまり、運動性によって目的に適う仕方で外界に修正をひき起こすところで利用されうる表象の蓄積としての二次システム(前意識システムの原型)が生成する時間を論じるなかで、ようやく外界の問いを明示する。かくして、『夢判断』が差し出す理論装置は、次の二点をあわせもつことによって興味深いものになっている。すなわち、それは、願望の力あるいは諸表象の力動的関係というものを、いずれにしても生の経済のなかで示しあらわすべき問題として位置づけるという、理論構築上の決断を標している。かつ、「よるべなさ」や「異他的な助け」による「満足」という語や語句を、なによりもまず(ヒステリー研究の成果により直接的に由来するだろう)前意識的表象の規定との相容れなさにおいて理解するよう促している。

100608_Sato_Kazumori_Photo_02.jpg

1900年に始まった転回は、以降のメタ心理学の発展につれて徐々に完遂される。後期のテクストの読解を通じては、おそらく、フロイトによる「生物学」の援用が、他のディシプリンによる根拠づけの呼び求めに還元され得ないことをより明確にしうるであろう。と同時に、必ずしもそれがテクニカルタームと呼びえないことを十分に強調しながら、文学作品の分析的読解や文化論においてそれのみで登場する「よるべなさ」を、異他的な助けの介入や満足体験という観念との分節化を通じての理論化を待つものとして再評価する途が開かれるであろう。

佐藤朋子(UTCP・PD研究員)


2人目は数森寛子さんです。数森さんの専門はフランスの作家ヴィクトル・ユゴー研究。今回の発表ではユゴーの『レ・ミゼラブル』に見られる「意識/無意識」について原文を読みながら解説しました。発表タイトルは「ヴィクトル・ユゴーにおける意識と無意識」です。以下、数森さんによる発表のまとめです.

今後の研究では、精神分析理論が成立する以前の時代、とりわけ19世紀のフランスにおいて、後に「無意識」として概念化されることになる未知の領域を、文学がどのように思索したのかを明らかにしたいと考えている。今回の発表では小説『レ・ミゼラブル』(1862年)の分析を通じて、ヴィクトル・ユゴーの作品のなかで「意識」がいかなるイメージ的な広がりを有するものであるかを考察した。この小説に見出される「下水道は都市にとっての意識であるL’égout, c’est la conscience de la ville.」という表現が含意するものを検討することから出発し、ユゴーが「意識」と呼ぶところのものの中には、精神分析の概念としての「無意識」と重なり合う部分があることを指摘した。社会が隠蔽しようとする歴史的惨事の記憶はみな、都市の表層から地下へと押し流され、そこに巨大な塵芥の山として堆積し続ける。ユゴーはそのようなものとして都市の無意識的記憶の存在を想像する。突如として地上に逆流して都市を脅かす下水道の汚泥。地下から湧きあがるように、都市のあらゆるがらくた、ぼろ屑、破壊された事物を集めて一瞬のうちに建設されるバリケード。これら二つの描写を比較しながら、ユゴーにおける都市と歴史の「無意識」の表象を検討した。

100608_Sato_Kazumori_Photo_04.jpg

都市の「無意識」的な領域からの押し戻しは、瞬く間に、パリという首都の中心に信じられないような建造物を作り出す。それがこの作家の考える「バリケード」である。民衆が手にし得るあらゆる武器、すなわち椅子やテーブル、荷車、壊れた窓枠、引き抜かれた煙突、そうしたすべてがバリケードに投げ込まれる。それは下水道にあらゆる文明の汚穢がのみ込まれていくのと同様である。さらに、バリケードは山積みにした武器を社会に向けて突きつけるのだが、それは下水道が突如氾濫を起こして町に溢れ出ることで、あらゆる汚物を社会に見せつけるのと同様である。この二つの噴出―都市の見えない部分に押し込められたものが、都市の表層、社会に対して押し返してくる急激な運動―を、ユゴーは都市あるいは社会という身体に発生する「症状」として捉えるのである。下水道の場合、それは嘔吐であり、バリケードの場合、それは「激しい発作paroxysme」として描かれている。

数森寛子(UTCP・PD研究員)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】UTCPレクチャー「「よるべなさ」再考ーフロイトにおける生物学主義の展開と転回」「ヴィクトル・ユゴーの作品における意識と無意識」
↑ページの先頭へ