Blog / ブログ

 

【報告】Workshop on Public Engagement in Science and Technology

2010.04.09 中尾麻伊香, 関谷翔, 脳科学と倫理

2010年1月21日、科学技術に関する市民参加をテーマにしたワークショップが開催された。前半に中尾が「こまば脳カフェ」の取り組みを報告し、後半に関谷がなぜそもそも市民参加なのかという理論的な考察を行った。

中尾は、"Philosophy Meets Neuroscience: An Introduction to an Approach to the 'Komaba Brain Cafe'”というタイトルで、昨年はじめた「こまば脳カフェ」の取り組みについて話した。

まず、こまば脳カフェの背景として、最近の日本における科学コミュニケーションをめぐる動向、なかでもサイエンスカフェという取り組みが全国的に広がりを見せている状況を紹介した。また、こうした取り組みには政府主導による科学の理解増進を目指したものが多い現状について指摘した。次に、近年の脳科学ブームといえる状況、脳科学のコミュニケーションに関する先行研究を紹介した。一方で、UTCP中期教育プログラム「脳科学と倫理」グループではこれまで脳科学の進展に伴い生じうる倫理的問題を検討してきた。倫理的問題はそもそも社会において発生するものであり、誰ひとりそれと無関係ではない。しかし脳神経の複雑なメカニズムは容易に記述できるものではなく、また専門家の間で見解の一致しない点も少なくありない。そこで私たちは、脳科学について専門分野を越えて自由に語りあえる場が必要であると考えた。一昨年の4月から中尾をはじめ「脳科学と倫理」プログラムのメンバーらで企画を練り、昨年の春から概ねひと月に一回こまば脳カフェを開催してきた。

100121_Wakeford_Workshop_Photo_a.jpg

こまば脳カフェの特徴は、UTCPおよび科学史科学哲学研究室という、哲学・人文系の団体が主催しているということである。つまりこまば脳カフェにおいては、ただ脳科学に対する理解増進をはかることではなく、脳科学をめぐる倫理的、社会的、哲学的問題を議論することを目的としている。主に脳科学を専門とする若手研究者をゲストに迎え、彼らの話題提供をもとに脳科学に関して自由に議論をしていくスタイルをとった。進行を担当するファシリテーターは、主に脳神経倫理を学ぶUTCPの若手研究者が務めた。参加者は毎回のテーマごとに層は若干異なるが、学生から社会人、出版関係者、近隣の住人、脳科学研究者など多岐にわたり、リピーターの方も多かった。

こまば脳カフェは私たちにとって新しい試みだったので、脳カフェを開催しながら活動の意義や運営方針について様々な議論を行った。目指す方向として、ゲストにはなるべく専門用語を用いずに、論文として出されるような最先端の研究成果だけでなく、普段の研究生活において感じている葛藤や、研究のモチベーションについて話していただくということ、ファシリテーターは、難解な用語が出たときにはゲストに説明を求め、議論が混迷した時には整理し、時には新しい話題を提供するということを心がけた。こうした普段の研究環境とは異なる場での経験は、ゲストにもファシリテーターにも新たな視点や論点に気づかされる貴重な機会となっている。また、定期的に開催することで、脳科学に関心を持つ人々のつながりの場ともなっている。若手研究者にとっては、社会と向き合って活動をすることで、大学が社会の中にある意義について考えるきっかけとなっているという。こまば脳カフェは大学内で行っており、まだまだ大学内に閉じているといえるかもしれない。私たちは大学とは社会に開かれているべき場所であると考えているが、大学という場は一方的に知識を得る場であるというイメージは根強くある。実際、これまでの脳カフェでは、ゲストに話を聞く講演会のようになってしまうこともあり、どのようにすればより双方向的な場を実現できるかが今後の課題である。

大学の研究者は制度に守られている面もあるが、制度が変わっていく中、文理を問わず研究者が自らの研究対象とだけ向き合っていてはやっていけない世の中かもしれない。私たちは広い意味での哲学、人文学にできることは、何であるのかを考えながら、今後も模索していくつもりである。

(以上、中尾麻伊香)


中尾氏のプレゼンテーションに続けて、関谷が「なぜ市民参加なのか? 市民参加の理論的根拠を求めて」というタイトルでプレゼンテーションを行った。

近年、科学技術分野において、さまざまな市民参加的手法が開発されており、世界中で実施されるようになってきている。日本では、2000年以降、大学や科学館などが科学技術コミュニケーターを要請するプログラムを開始し、食品安全委員会もリスクコミュニケーター養成のための同様のプログラムを昨年から始めている。科学技術コミュニケーションが普及し、その重要性はより多くの人々に認識されるようになっている今こそ、なぜ市民参加が必要なのか、どのような根拠に基づいて市民参加が正当化されるのかを考える必要があるだろう。

なぜ市民参加が求められるのか。どのような根拠に基づいて市民参加が正当化されるのか。トランス・サイエンス的状況の出現や、欠如モデルからの脱却の重要性だけでは、そうした問いに十分に答えることはできないだろう。確かに、科学技術の普及した社会で科学技術だけでは解くことができない、あるいは欠如モデル的なコミュニケーションでは解決することができない問題は存在する。しかし、そうしたことだけからでは市民参加の必要性は帰結しない。現代社会で市民参加が求められる別の理由を模索する必要がある。

100121_Wakeford_Workshop_Photo_b.jpg

おそらく、3つの異なった観点からの回答があり得るだろう。1つ目は実践的な観点からの回答である。「我々は科学技術にかかわる問題を、もはや今までのような方法では解決できなくなってきた。市民参加的な手法での解決が求められる。よって、市民参加が必要である」。2つ目は社会的な観点からの回答である。「科学技術は社会構造となっており、我々はそうした科学技術に対して統制力を持たなくてはならない。よって、市民参加が求められる」。3つ目は、民主主義的観点からの回答である。「我々は熟議民主主義を希求しなくてはならない。なぜならば、熟議民主主義は他の民主主義よりも優れているからである。熟議民主主義が実現している社会では、市民参加が求められる。よって、市民参加が必要である」。いまのところ、この3つの中では最後の民主主義的観点からの回答がもっとも有望な回答であるように思われる。

熟議は人々が生の意見から熟議を経た意見を形成することを促進する。また、特段の理由がない限り、対話の場はすべての人々に開かれていることを熟議民主主義は求める。そうした過程のなかで、人々は他者の意見に寛容であるように求められ、そして自らの意見を正当化するようにも求められる。質をどう担保するかという問題もあるだろうが、熟議を経た後の意見がもとの生の意見よりも優れたものであるかどうかを別にしても、そうした熟議のプロセスそのものが集団の意思決定の正当性を高めるものになるだろう。

もちろん、こうした議論には課題もある。ここでは4点を挙げよう。第1に、現代の状況においては、科学技術は特権的な地位を求めることはできない。科学技術以外にも、税制、保険制度、防衛、国際関係など、熟議されるべき問題はごまんとある。科学技術はそのなかの1つである。第2に、心理学の分野では、集団極性化という現象がよく知られている。人々が集団で自らの信念や選好について話し合う場合、最終的にはもともと持っていた信念や選好がより強まった形で合意に至る傾向があるという。こうした悪影響は避けなければならないだろう。第3に、そもそも合意を求めるべきか否かという問題がある。柳瀬昇は、熟議を合意が必要なものとそうでないものとの2者に分けている。前者は集団での意思決定であり、後者は個人の意見形成である。この問題は、換言すれば、熟議民主主義と他の形式の民主主義とをどのように結合するかという問題でもある。熟議民主主義と選挙とを結合する例としては、アメリカで試行的に行われたデリバレーション・デイ(熟議の日)がある。デリバレーション・デイはアッカーマンとフィシュキンによって提案された国民の休日であり、大統領選挙のある年に設けられる。その日に、全米の選挙権を持つ国民は公共の場に集まり、来るべき大統領選挙の候補についての議論を行うというものである。第4に、専門家と一般大衆との関係の問題がある。私は科学を民主化するという議論には懐疑的である。この点について、日本の裁判員制度から学ぶところが多いと思われる。この制度では、裁判官は決して民主化されないし、弁護士もまた同様である。熟議民主主義における科学者と一般市民との関係も、この裁判官と裁判員との関係に似たものになるだろうと思われるが、この点については、さらなる検討が必要だろう。
(以上、関谷翔)

100121_Wakeford_Workshop_Photo_c.jpg

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】Workshop on Public Engagement in Science and Technology
↑ページの先頭へ