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【報告】UTCP講演会「多声的表象の臨界—『アジアとヨーロッパの肖像』展の軌跡と展望—」

2010.03.12 中尾麻伊香, 安永麻里絵, イメージ研究の再構築, セミナー・講演会

2010年2月24日、国立民族学博物館の吉田憲司氏をお招きして、講演会「多声表象の臨界—「アジアとヨーロッパの肖像」展の展望と軌跡—」が開催された。

「アジアとヨーロッパの肖像」展は、ASEMUS (Asia-Europe Museum Network) に参加する18カ国の美術館・博物館キュレーターが結集して練り上げた国際巡回展である(英語名称は”Self and Other: Portraits from Asia and Europe”)。この展覧会は自己および他者表象を古今東西の肖像の展示からたどることを目的としたもので、2008年から2009年に日本国内5会場で開催された現在はロンドンで開催されており、今後、アジアとヨーロッパ各国での開催が予定されている。

本講演会では、アジア側のプロジェクトリーダーとしてこの展覧会を率いてきた吉田氏に、そこでの挑戦や見えてきた課題などを伺った。

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【吉田憲司氏】

日本における展覧会「アジアとヨーロッパの肖像」は、大阪2会場、福岡1会場、神奈川2会場でそれぞれ開催された。吉田氏はこのユニークな試みにおいていくつかの挑戦を行ったという。

そのひとつは博物館と美術館の区別を乗り越えるということであった。吉田氏は、美術館と博物館が会場となった大阪2会場同時開催の試みで、西洋においてはミュージアムという一つの括りになっている美術館と博物館が日本では明確に二分されていることを問題視し、その垣根を取り払おうと試みた。それは美術と美術でないものとの境界はどこにあるのかという関心からくるものであった。展示を通して吉田氏が感じたことは、美術館と博物館の違いは、展示品にではなくアプローチにあるということだ。本展覧会の各館の展示を振り返ってみると、美術館ではアジアとヨーロッパの交流というストーリーを下敷きとして個々の作品を見せていた一方、博物館では個々の作品に焦点をあてるのではなく、全体を通した大きな枠組みやストーリーを見せていたという違いがあった。

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もう一つの試みは、博物館/美術館における作品「所有」からの脱却であった。それは「運動体としての国際巡回展」という挑戦ともつながる。場所が変われば規模も展示品も変化していく。そして複数のミュージアム間で大規模な「借用」が行われる。こうしたなかで、ミュージアム間のネットワークが形成されていく。ミュージアムが「所有」することを諦め、〈フォーラムとしてのミュ—ジアム〉となった瞬間に、いわば世界中が収蔵庫になるのである。これは、しばしば植民地的に集積する装置として捉えられてきた博物館/美術館の今後の可能性を探るものである。

自他表象をめぐるさまざまな問題を可視化することも、「多声性の実現」という挑戦からくるものであった。展覧会で扱った「肖像」をめぐっては、文化によって多様な解釈があったという。最終的には、「人物像」であるという広義の共通項で一致した。また、例えばイスラム圏においては文字で権威者が描かれたなど、人物の表象は人類文化すべてにあったわけではなかった。

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以上が吉田氏の講演の概要の一部である。司会&コメンテーターの安永氏からは、多声性の実現という挑戦に込められた意図をめぐって、吉田氏が約10年前に企画した「異文化へのまなざし」などの展覧会から問題意識を引き継ぎ、今回の企画で「肖像」をテーマとした背景には、それが必然的に美術館の展示物として馴染みやすい平面作品に重点を置くことにつながることから、博物館という場のもつ植民地主義的な性質、さらにもともとは宗教的な礼拝の対象となっていた事物を展示することがはらむ問題を回避する意図があったのか否か、という質問がなされた。吉田氏の返答は、「肖像」というテーマはそのような意図から選ばれたのではなく、アジアとヨーロッパにおける相互認識を探るという目的に最も適した題材として選ばれた、というものであった。

質疑応答ではさらに、この企画が追求した「多声性」について、展示をひとつの著作になぞらえるならば、それは実際的には複数のキュレーターの見解が反映された、いわば共著のような展示ということを意味しているのか、といった問いや、“Portrait”をテーマとして掲げれば西洋美術史学における一ジャンルとしての「肖像画」が問題となることは自明であったにもかかわらず、なぜ敢えて“Portrait”の語を英題に選択したのかという疑問が提示された。後者の質問については、それが問題として前景化したことによってむしろ、西欧美術における「肖像画」の定義にそぐわない多数の作品の存在が明らかとなり、従来の「肖像画」の枠組みを超えた視点の獲得という生産的結果を生んだと吉田氏は述べられた。さらに、植民地化された地域の作品の位置づけ、あるいは、各国の共同作業の成果が英語という共通言語によって説明されるがゆえに、翻訳によって解釈が変わってしまう可能性などが議論された。

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【司会・コメンテーター 安永麻里絵(UTCP)】

吉田氏の語りにおいて自己/他者と自文化/他文化とが混同されているように感じた私は、両者を区別する必要があることを指摘し、このような認識が吉田氏の文化人類学者としてのキャリアからくるものなのか、自己と他者の境界についての考えを尋ねた。吉田氏は、人類学者として異文化に身をおいた局面において文化的なアイデンティティが強調されたりした経験を語り、他者を描くことは自己を発見していくことであるから、自己と他者はワンセットであると答えた。

以上、美術館/博物館、アジア/ヨーロッパ、美術史学/民族学、さらにはオリジナル作品/複製写真といった様々な境界のはらむ歴史的・現在的問題をめぐって刺激的な議論がかわされた。

最後に個人的な話になるが、私は修士課程で博物館展示の研究を行った。どのようにして展示は価値あるものとして展示されるのか、その背景にある政治性に関心を持ち、人類学研究室を訪れて出会ったのが吉田氏の著書『「文化」の発見』だった。この本を手ほどきとして修士論文を執筆した私にとって、今回の講演は研究の原点を思い起こさせられる機会ともなった。こういう機会が身近にあることがUTCPのよさであるということを改めて感じた。

(報告:中尾麻伊香)

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