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【旅日記】郵便配達人かつ旅人——旅の終わりの旅立ちの唄 NYU,Yale University

2009.09.13 西山雄二

イサカを発って5時間後、日暮れの大都市ニューヨークのネオンサインの風景のなかにバスが吸い込まれていった。翌日から再び、映画「哲学への権利」の上映と討論会がニューヨーク大学から始まる。

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ニューヨーク大学(通称NYU)は銀行家や商人などの有閑層グループによって1831年に創設された。「出自や身分、社会階級ではなく能力に応じて、若者に高等教育の機会が与えられる大学をマンハッタン島に」というのが彼らの理念だった。当時、アメリカのカレッジが特定のキリスト教派と関係して創設されていたなかで、NYUは無教派の大学として創立された。ちなみに、NYUの哲学科は、英米圏の50の哲学科ランキングでつねに1、2位を争っている。

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(ボブ・ディランも演奏していた「Cafe Wha?」)

NYUのキャンパス群はワシントン・スクエアとグリニッチ・ヴィレッジ周辺に点在しているが、この地域は19世紀初頭以来、ニューヨークの文化的中心地であり続けている。E・A・ポー、マーク・トゥェイン、ハーマン・メルヴィル、ウォルター・ホイットマンらが近隣に居を構えて創作活動をおこない、1930年代にはジャクソン・ポロックやデ・クーニングらが抽象表現主義の拠点を付近に据え、1960年代にはアレン・ギンズバーグやボブ・ディランらがこの地域からビート・ジェネレーションやフォーク音楽を世界に発信した。

9月10日、映画「哲学への権利」のNYUでの上映には約20名ほどが参加し、議論をおこなった。UTCPは5月にNYUなどとGraduate Student Conferenceを東京で開催したが、そのときに参加したNYUの学生も何人か顔を出してくれた。

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ミハイル・ヤンポリスキ氏によれば、「この作品はとりわけアメリカの学問状況を考える上で重要である。アメリカではヨーロッパの大陸哲学がカルチュラル・スタディーズや比較文学などに吸収され、準-学科的な扱いを受けているからだ」。トマス・ルーザー氏からは「哲学が一学問分野というよりも、そもそも領域横断的なものであることがこの作品によって鮮明になる」、リチャード・カリッチマン氏からは「哲学と他の学問分野の関係はやはりandによってしか語ることはできないのか、and以外の方法で語ることはできないのか」、ペドロ・エルバー氏からは「デリダの名前が特権的に引用されていて、他の思想家の名が出てこないことが気になる」とのコメントをいただいた。

翌9月11日、雨のなか、鉄道アムトラックで1時間半移動し、ニュー・へヴンの町に到着。ホテルに立ち寄ってすぐにイェール大学に向かう。1701年創設のイェール大学はアメリカで3番目に古い大学だ。19世紀初頭に発行されたYale Literary Magazineはアメリカでもっとも古い文学批評誌だが、以後、ニュークリティシズム、比較文学、脱構築批評とイェール大学は文学研究を活気づけてきた。

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(美しいネオゴシック様式の校舎)

イェール大学での上映は東大‐イェール・イニシアティヴの主催で実施され、25名ほどが集まった。上映に使用された部屋は、以前チャペルに使用していたというステンドグラス窓の落ち着いた雰囲気の中部屋。Film Studiesが常用する部屋だけあって、大スクリーンでの映写と音響は満足のいくものだった。

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討論では、まず高田康成氏が、国際哲学コレージュを創設した直後、1983年の秋にデリダが日本を訪問したときのことを語った。モイラ・フラナガー氏は、国際哲学コレージュが抱える理念が、哲学への欲望と制度の逆説のなかにあることを指摘。最後に、ハウン・ソーシー氏は丁寧なコメントを加え、本作品が強調する手のイメージに触れた。「手の動きは語り手の思考と比べてつねに先立つか遅れており、このずれの感触が上手く描き出されている」。その後、会場との質疑応答が続けられたが、夜の雨音によって際立つチャペル室の静けさのなかで、ひとつひとつの言葉が独特の重みをもって室内に響き渡るのが心地良かった。

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今回は初めてのアメリカ旅行だったが、現地のみなさんの適切な協力によって、すべての仕事を問題なく終えることができた。心より感謝する次第である。とりわけ、フランス語風の拙い私の英語に熱心に耳を傾けてくれた聴衆のみなさんに感謝したい気持で一杯である。

旅の終わりに、初心に帰って、少しだけ個人的な話を。

学部生の頃、一年間休学して、しばらく郵便配達のアルバイトをしたことがある。バイクに乗るのが好きなこともあり、郵便配達の仕事はなかなか魅力的で、その後も何度か従事することになる。基本的にひとりでおこなう仕事なのだが、他者の手紙を他者へと伝える仲介者として、ひとりでいるのにひとりでいる気がしない不思議な感覚がするのだ。郵便配達で貯めた資金をもとにして、その後、東アジアに半年間の一人旅に出た。初めての海外旅行であり、また、大病の後遺症を長年患っていた父が亡くなった直後の一人旅となった。旅先でノートに書きつけたたくさんの言葉をもとにして、帰国後、思い立ち、友人たちと8ミリ映画を初めて製作したのだった。

あれから十数年後、今回は旅のはじめに映画があった。旅の主要な目的は、いわばこの第2作目の映画作品を上映することである。しかも、7人のインタヴューからなるドキュメンタリー映画である。講演や発表といった個人的な自己表現というよりも、他者の言葉をさらに他者に届ける責務を果たすために上映の旅に出たわけだ。届けると言っても、宛先が明確に決まっているわけではなく、受け取り方はもちろん、ひとそれぞれ自由である。上映が始まって数十分で退席する人も何人もいれば、「そのスタイルと内容からして、これまで受けたなかで最高の哲学教育の時間」と絶賛する大学院生もいた。

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ところで、人文学の研究者は、本質的に、郵便配達人かつ旅人である、というのは言い過ぎだろうか。人文学研究者は、基本的に、他者のテクストを読み、他者の言葉を受け取り、また新たなテクストとして、見知らぬ他者へと送り出すことをその責務とする。また、テクストの魅力は時間と空間の制約から解き放たれて、旅に出る感覚を抱くことができる点にあるだろう。他者の言葉と対話を続け、異邦の風景へと誘われることで、自己表現を成立させるのが人文学研究者の営みではないだろうか。ひとりでいるのにひとりでいる気がしないという距離のある友愛とともに続けられるひとり旅である。もっとも「異郷へ旅したものは往々にして、正確には真実とは言いがたいことまで主張しがちなものである」のだが、しかし、郵便配達人かつ旅人である限りにおいて、人文学研究者は「すべてを公的に言う権利」を有するのである。

アメリカ東海岸での旅が無事に終わるが、映画「哲学への権利」はこれからやっと本格的な旅に出る。日本、フランス、アメリカ西海岸の各地での数多くの上映と討論会が準備されているところである。討論会にはさまざまな方に参加していただき、この資本主義時代における人文学や哲学の制度的可能性を議論したいと考えている。

旅の終わりに奏でられるのは、またしても、旅立ちの唄である。

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(ニュー・へヴンを去り、JFK空港へと向かう早朝、イェール大学構内を散歩しているときにゴミ箱から顔を出した〔野良?〕リス。このアメリカ滞在で、対話〔独語?〕を交わした最後の生き物。)

(文責:西山雄二)

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