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【UTCP Juventus】千葉雅也

2009.08.26 千葉雅也, UTCP Juventus

 修士課程以来、私は一貫してジル・ドゥルーズの哲学を再検討してきました。私のドゥルーズ読解には、二つの柱があります。

 (1)修士論文のテーマである「動物への生成変化」。(2)ドゥルーズ哲学と精神分析、芸術との接点において問われる「倒錯」(perversion)。現在、これら二つの柱を以ってドゥルーズ像を建てなおす博士論文をまとめているところです。その結論をスケッチするため、先月、論文「トランスアディクション――動物‐性の生成変化」を『現代思想』に寄稿しました。
 とはいえ、このUTCPでは、ドゥルーズ哲学のみを中心とせずに、視野を拡げることを狙っています。そのため、本年度は、「ポジティヴ・ポストヒューマニティ」というキーワードを核とした研究を行っています。それは、次のようなポイントを含むものです。(a)ネガティヴなしかたではなく、ポジティブな──肯定的、実体的、さらにはマテリアルな──しかたで存立する「他者性」。(b)そうした「他者性」によって触発される人間が、みずからの「近代的」な定義から脱して、「人間性以後」(ポストヒューマニティ)へと変態すること。(c)以上を問うために、更新された人文学のあり方、すなわち「ポスト人文学」(ポストヒューマニティーズ)の哲学的フレームワークを定礎すること。
 20世紀後半における「ポスト構造主義」そして「ポストモダニズム」は、しばしば、社会の高度情報化と結びついてきました。これを、哲学の〈情報論的パラダイム〉と呼びましょう。私の考えでは、このパラダイムは、ジャック・デリダやエマニュエル・レヴィナスといったユダヤ系思想家による〈ネガティヴな他者論〉と密接です。すなわち、安定した同一性をもつことが「不可能なもの」、つねに「ズレていくこと」(déplacement)をやめない「痕跡」としての「他者性」をめぐる考察です。そうした「他者性」を、ネットワーク社会における情報伝達の「不確定性」として問題化するという理路が、1990年代後半から2000年前後にかけて形成されてきました。しかし他方で、いま関心を向けたいのは、21世紀に入って急速化した生命技術のイノベーションに関わる〈生態論的パラダイム〉です。万能細胞による再生医療や、機械と生体のより高度な融合(サイボーグ化)、そして脳機能への直接的介入(薬物によるエンハンスメントなど)──そうしたトピックにおいて問われるのは、「ズレていくこと」によって同一性を宙づりにするメディア・テクノロジーではなく、身体に浸透し、その力能を「内在的」に異化するポスト・メディア的テクノロジーであると言えます。〈情報論的パラダイム〉にとって重要なのは、固有性をネガティヴに揺さぶる──脱‐固有化する──他者性でした。しかし〈生態論的パラダイム〉にとって重要なのは、新たに生きられるべき異なった固有性への変態──脱‐固有化と再‐固有化──であり、そのプロセスのただなかに息づく〈ポジティヴな他者性〉なのです。
 私の考えでは、かつてミシェル・フーコーが言った「人間の死」は、いま、ひじょうにリテラルな意味において理解されるべきです。そこには、次のような二つの極があります。一方では、(i)前述したような、異なった存在への生まれなおしを実現するテクノロジーがあります──ポストヒューマニティへの拡張的変態としての「人間の死」。他方では、(ii)地球規模での環境問題において、人間の絶滅がますます切実なリアリティをもち始めています──端的なカタストロフィーとしての「人間の死」。こうしたリテラルな「人間の死」に対する責任=応答可能性において、人文学──そして諸芸術やサブカルチャーの生産──のあり方が、どのような異化を、すなわちポスト人文学への移行を強いられるのかを考えていく必要があります。
 これまで「人間の死」というものは、「近代的」人間の観念と対をなす影のごときものでした。すなわち、近代の諸科学が、人間=自身という対象を中心化する際に浮上した、自己言及性のパラドクスという影です。みずからを純粋に対象化しきることの不可能性、つまり知の「有限性」こそを、本来性として引き受けること──それが「近代的」な人間の自己定義でした。ポストモダンの時代に先鋭化する〈ネガティヴな他者論〉のすべては、そこに淵源をもっていると言えます。人間=自身をめぐる知の循環構造(エコノミー)に捲き込まれて痙攣する有限性、それを洗練されたしかたで考究したのがフロイトの精神分析であり、ハイデガーの現存在分析です。しかし、20世紀後半になると、それら〈有限性分析〉の思考は、ラディカルな他者論へと深化していきました。ハイデガーが前提としていた現存在の自己中心性は、後にレヴィナスによって打破されます。レヴィナスによれば、優先されるべきは、自己の固有性を隈どる限界(=私の死)ではなく、無限の外部性としての「全き他者」という、自己を脱‐固有化する限界です。ところが、この「全き他者」の一神教的な単数=特異性は、さらにデリダによって批判されました。デリダは、フロイトを再読しつつ、無意識において複数的な他者たちの記憶にとり憑かれた存在という見方へと向かうのです。自己の死から全き他者へ、そして他者の複数化へ。こうした20世紀思想史の展開は、近代的人間と対をなしてそれを揺さぶる影をいっそう「非‐現前的」な他者性として捉えなおす歩みでした。
 しかし我々の時代においては、他者論の技術的条件が変わりつつあるように思われます。それを考察している論者として、カトリーヌ・マラブーとトム・コーエンを挙げておきましょう。マラブーによれば、フロイト精神分析の限界は、脳神経のマテリアルな「可塑性」がもたらす心の他者化を考えようとしなかった点にあります。そこでマラブーは、事故による損傷やアルツハイマー病などにおいて、脳という有機体がじかに被るダメージが、主体性を大きく変性させるケースに注目します。そこでは、意識とその影としての無意識の相剋という近代的構図には収まらない、(かつての)自己に対する(新しい)自己のごくマテリアルな切断‐生成が問われています。他方でコーエンは「気候変動の人文学」という問いを掲げています。連続的なアーカイヴとしての人間的歴史が、いつの日か、海水面の上昇といったカタストロフィーによって切断されるなら、そのとき人文学は、「歴史性」概念それ自体のラディカルな他者化に面するでしょう。個々人の核をなす脳のスケールにおいて、そして地球全体のスケールにおいて「人間の死」を耐えること。こうした両極のあいだで問われるのが、〈ポジティヴな他者性〉によって殺され=復活するポストヒューマニティの生態なのです。
 こうした関心を背景としつつ、私はこれまで、ジル・ドゥルーズの哲学における「存在‐生態論的」(onto-éthologique)問題構制について研究してきました。ドゥルーズは、「動物への生成変化」という概念によって、異なった生態をもつ存在へとみずからを他者化させる出来事について考察しています。しかし一方で、(i)この他者化を導くのは、レヴィナスやデリダにとって問題であったようなユダヤ的外部性ではありません。かといって、(ii)生成変化の自己充実した自然性を言祝ぐことでよしとするわけでもありません。ドゥルーズ哲学において核心的なのは、近代的人間の影としての否定性とは別のしかたでの否定性なのです。ここで私は、ドゥルーズを、マラブーらのマテリアリズムに接続したいと思っています。ドゥルーズそしてガタリが「多様体」や「リゾーム」といったイディオムによって指そうとしたのは、複数のマテリアルな否定性──脳の内部、身体の周囲、そして社会的関係など、さまざまなレベルにおける有限な環境設定の布置──に応じて可塑的な主体化をやりなおし続ける生態のあり方に他ならないのです。そのように考えることで、ときに「異教的」とも形容されるドゥルーズの哲学を、21世紀の〈生態論的パラダイム〉へと直結することが可能となるのです。
 いま集中的に研究しているのは、ポジティヴ・ポストヒューマニティと「想像力」の関係です。人間以後において歴史=物語を再編成しつづける想像力――それは、心の力能としての想像力ではなく、世界ないし存在それ自体の根本的な存立原理としての想像力です。最近立ち上げた短期教育プログラムでは、「ファンタジー」という概念の哲学的再検討を通してこのテーマを掘り下げています。また、これまでの哲学研究にもとづく現代美術批評の試みも行っています。9/5(土)には、トーキョーワンダーサイト本郷にて「NEW DIRECTION: exp.」展のトークイベントがあります。お時間ありましたらぜひご来場ください。
 

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