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時の彩り(つれづれ、草) 075

2009.08.10 小林康夫

☆ 夏のNota Bene (3) (「希望は、天から降る星のように、かれらの頭上を通りすぎていった」)

夏休みとはいえ、新機構の設立問題で本郷へ本部の理事に会いに行ったり、「思考のパルティータ」連載の原稿を書いたり、なかなか完全な休止にはいたらない。この後者は、フィンスクさんの講演に触発されてブランショの『終りなき対話』の冒頭に収められた疲労についてのテクストの読解が前半だけで中断していたので、それを書きついで終わらせるという仕事。

実は、そのテクストの最後は「中断」という問題系だったのだが、それもまたUTCPの森田さんが先日行ったワークショップに刺激されて、ベンヤミンの『ゲーテ 親和力』を電車のなかで読み直していたら、その最後が、もちろんヘルダーリンを引いてだが、まさに「中断」のプロブレマティックだった。思いもかけず、ブランショとベンヤミンのあいだに(あるいはわたしの頭のなかに)、稲妻が走った次第。

さらに昨日9日の日曜には、駒場で原和之さん主催の研究会「言語と無意識」に参加。ラカンの「Encore」を読むというので、久しぶりに読んでるこちらの頭がボロメアンのリングのようにこんがらかってくるフランス語テクストを読む。実は、このテクストは、30年前のパリ留学時代にスイユ版が出たばかりで、わけがわからないまま読んでいた記憶があるのだが、あのときに比べれば、なんとなく微笑むような感じで恐れなしに読むことができる。といっても3回くらいは読み返さないとわからないのだが。

ベンヤミンの「ゲーテ 親和力」は、その最後に「希望」を問う。しかし「希望」とはいえ、「それを心に抱くひとのため」ではく、「その希望が向けられている人々のため」のものである。かれは、ゲーテ「親和力」のなかのヘルダーリン的な「中断」(中間休止)、「あらゆるものが休止するような文章」として「希望は、天から降る星のように、かれらの頭上を通りすぎていった」をあげている。語り手がこの「希望のなさ」をみずからのうちに受けとめる、そのときに「きわめてはかない希望」、しかし出来事としての「希望」が、宵の明星のように、ただ震える問いのように、微光を発する。これこそベンヤミンにとっての、あらゆるカタルシスの彼方の!、クリティークの「希望」であったにちがいない。

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