Blog / ブログ

 

【報告】共生のための国際哲学演習VII「哲学としての現代中国」

2009.06.04 中島隆博, 西山雄二, 哲学としての現代中国

中島隆博が担当する中期教育プログラム「哲学としての現代中国」は、今学期、大学院ゼミの枠「共生のための国際哲学演習VII」として日本思想に関する活動をおこなっている。本ブログにてその内容を順次掲載していくことにする。

4月21日
丸山眞男『「文明論之概略」を読む』の「政治」とは何か?

(発表者:井出健太郎)

福沢の「一身独立して一国独立する」という標語に集約されるように、丸山が福沢に仮託して語った「政治」は、ネーションの不断の決断によって駆動される「作為」的なナショナリズムをその根幹に据えていた。その一方、丸山は、「日本」における近代的な政治思想の漸進的な成熟を支持する歴史叙述を貫徹するために、1945年8月15日のポツダム宣言受諾による断絶を強調したうえで「国体」への批判が不充分なままに再度ナショナリズムの枠組みを強力に導入したため、「懐古の情」「思い出」といった「自然」になかば訴えることになった。この発表では、丸山の議論におけるこうした不徹底を、本書第六章で取り上げられている「政統」(political legitimacy)概念の定義の揺らぎに焦点をあてて論じることを目標とし、そのうえで、政治権力の法的・道義的な基礎づけとしての「政統」を改めて前景化することを通じて、「政治」の基礎づけにおける「自然」の導入を批判するばかりでなく、ナショナリズムの枠組み自体を問い直してみたい。

(文責:東京大学博士課程 井出健太郎)


5月26日
中島隆博「記憶と正統――丸山眞男における法・暴力・歴史」

(発表者:西山雄二)

5月26日、中島隆博の丸山眞男論「記憶と正統――丸山眞男における法・暴力・歴史」をめぐって西山雄二(UTCP)が発表した。丸山は、普遍者を欠いた国・日本において、無批判的な実感に基づく日本主義(小林秀雄)に抗しながら、権力の根拠を問う原理=「正統」を探究する。戦時中に絶対的な支配装置と化した「国体」を批判しつつ、その絶対価値を問う丸山にとって有効な方策は、法的な妥当性に基づいて自由な主体が政治を構成する仕方=「正統」である。丸山は「正統と異端」研究会を30年間継続したがその成果は公刊されなかった。そうした思想的流産との想像的な対話を通じて、中島は丸山の理論的隘路を解明する。なるほど丸山は特定の教義の真正さに立脚するオーソドキシー(正統)と、権力を正義によって構成主義的に問うレジティマシー(正統)を峻別するのだが、しかし、彼はむしろ両者の絡み合いを注視し続ける。また、丸山は「国体」は「正統」とは無関係に存続するとして、「国体」に対する「正統」の根本的な批判可能性を閉ざしているようにみえる。しかも、丸山の正統は国体への潜在的期待と不可分である場合もあり、ここに「国体」と「正統」の連関と格闘する丸山のアポリアがある。中島の結論は、「日本人」というナショナルな範疇によって暴力的災禍を被った(とりわけアジアの)人々に「正義」を返しつつ、こうした「〈外〉の主体」によって「国体」との切断を到来させ、批判的政治力として「正統」を制度的に構想することである。

(文責:西山雄二)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】共生のための国際哲学演習VII「哲学としての現代中国」
↑ページの先頭へ