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【旅日記】孤独の雑錯―Intersections of/at Paris

2009.05.14 西山雄二

孤独にはいったいいくつの種類の孤独があるのだろうか。パリに留学していた時に、その後パリに一時滞在する度に浮かんでくる問いだ。

「美には傷以外の起源はない。どんなひともおのれのうちに保持し保存している傷、特異な、ひとによって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、そのひとが世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためにそこへと退却するあの傷以外には。」――ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』

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「孤独」は客観的な状態ではなく、あくまでも反省的なものだ。孤独とはたんに「独りでいること」ではなく、「独りでいると感じること」であり、例えば、ひとは都会の雑踏のなかで孤独を感じたり、孤独に振る舞ったりする。周囲から意図的に距離をとる「孤高」もあれば、周囲から排除された「孤立」もあるだろう。雑駁な個人的印象でしかないのだが、パリの街では人々がさまざまな種類の孤独に身を曝し、互いが言葉を交わし、また過ぎ去っていくように感じられる。そして、日常生活のなかでしばしば感服するのだが、この孤独は他人に対する無関心を意味しない。電車やバスのなかで高齢者や幼児には必ず誰かが席を譲る。パン屋や肉屋、八百屋で行列しているとき、カフェやレストランで隣接した客のあいだで思わず談笑が始まる。社会問題に異議申し立てをおこなうデモ隊が街路を通ると賛同する場合には沿道から連帯の声が送られる。さまざまな類の孤独の雑多な重畳がパリそのものであるように感じられるのだ。

今回パリに出発する前にUTCPの事務所で小林氏、中島氏と談話した話題は「人文学における孤独」だった。自然科学とは異なり、人文科学研究においては共同作業は必ずしも必要とはされない。人文学は人間の精神活動を個々の人間が問い直す反省的な営みであり、ひたすらテクストを読み、テクストを書くという孤独が人文学の基本をなす。むしろさまざまな類の孤独を保持することによって、人文学の研究成果は蓄積されてきたとさえ言える。ところで、パリが西欧における知の力動的な中心地であり続けてきたのは、パリがさまざまな国や地域からやって来た人々の孤独を交錯させる要所であるからだというのは言い過ぎだろうか。

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(市役所前広場)

Intersection : Tokyo – Paris – Ithaca

昨年夏、7人の関係者にパリでインタヴュー取材した記録をもとに、ジャック・デリダらが創設した国際哲学コレージュに関するドキュメンタリー映画を現在製作している。
【関連記事】
2008.09.03 【現地報告@パリ】制度と運動――国際哲学コレージュ取材記
2008.09.08 【現地報告@パリ】学問の無償性――国際哲学コレージュ取材記(続)
【予告編】
http://www.youtube.com/watch?v=Ps4VhUAhxSc&feature=channel_page

効率化や収益性が重要視されるこのグローバル資本主義の時代に、哲学や人文学がなぜ必要なのか、どのような制度で存続させるべきなのか、といった本質的な問いを、国際哲学コレージュの独創的な研究教育活動に即して聞いてきた。また、デリダが「国際哲学コレージュ」をどのような目的で創設したのか、その今日的意義は何か、についても問うてきた。

初秋にコーネル大学に招聘されていることもあり、アメリカ各地での上映を企画しているのだが、友人の紹介で同大学比較文学科のAnne Berger氏に相談をもちかけている。Berger氏はデリダの脱構築思想に深い理解をもつ文学研究者であるからだ。また、彼女は国際哲学コレージュとは創設時から関係の深いエレーヌ・シクスーの長女である。

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(Anne Berger氏 パリ第8大学40周年記念シンポジウムにて)

英語字幕の仕事を引き受けてくれる人を探していたところ、パリ第8大学の院生・河野年宏さんがゼミの友人4人と一緒に引き受けてくれるという。大変ありがたい話だと喜んでいると、彼女らはパリ第8大学ジェンダー学科でAnne Berger氏のゼミ生であるという。Berger氏はパリ第8大学の職を兼任し、イサカとパリを往復しているらしい。彼女らのなかにはコーネル大学からの留学生も含まれており、秋には帰国するので現地での上映まで一緒に手伝ってくれることになった。

同じ人文学研究者である以上、字幕作業を仕事として依頼するビジネスライクな関係で済ませたくはない。研究者である彼女らの見解や思想も共同作業の形で反映させた作品に仕上げたい。パリに到着した日の夜に会を設定し、さっそくデモ版を観てもらい、議論をおこなった。大学と資本主義社会の関係、人文学の危機、エリート主義など、さまざまな問題意識を彼女らと共有することができたことがとても喜ばしく感じられた。

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(OphélieさんとMaria Fernandaさん)

「国際哲学コレージュのたんなる紹介ではなく、コレージュの活動を一例として、人文学や哲学の未来を聴衆とともに考える映像作品にしたい。コレージュの熱狂的なファン〔fanatique〕が作成したドキュメンタリー映画という風にはしたくない」――こうした私の趣旨説明に対するオフェリーさんの截然とした応答が印象的だった――「社会的な有用性に配慮する必要はあると思うけど、熱狂的なファンであることがなぜいけないの。fanatiqueというと宗教的な響きがしてたしかに嫌だけど、でも、人文学研究者は自分の研究対象に対してもっと熱狂的なファンであっていい」。

Intersection : Tokyo – Paris – HongKong – Sophia

滞在最終日は、世界各国を駆け巡る二人のブルガリア人研究者と会うことになった。

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一人目は、元UTCP研究員で現在、香港城市大学で教鞭をとるデンニッツァ・ガブラコヴァさん。今回はトゥールで開催される多和田葉子のワークショップに参加するために渡仏している。香港の大学界では業績競争が激しく、世界的権威のある学術雑誌に年間数本の論文を発表しなければならないという。日本の学術業界は国内的な市場性があるので、国際的な業績が厳しく問われることはさほどない。だが、香港では最初から国際競争の基準で研究教育が促進されているため、競争が激化するらしい。

二人目は国際哲学コレージュの若き副議長ボワイアン・マンチェフBoyan Manchev。彼はフランス語初の著作L'altération du monde : Pour une esthétique radicale〔世界の他性化―ラディカルな美学のために〕(Nouvelles Editions Lignes)を刊行したばかり。バタイユのラディカルな唯物論から出発して、政治的なものの創造的な地平を提示しようとする野心作だ。

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私の第一声は「ボワイアン、最近は何回飛行機に乗った?」 彼の応答は「4月は少なくとも15回かな」。彼は基本的に新ブルガリア大学に所属して教鞭をとっているが、パリの国際哲学コレージュ、Bauhaus-Universität Weimarでのセミナーなど、つねにヨーロッパ各地を文字通り「飛びまわり」研究教育活動をおこなっている。この日はイギリスでのシンポジウムを終えてTGVでパリに到着し、国際哲学コレージュの会議の直前に20分ほどだけ話をした。

今回の短い滞在中も実に多くの出会いと交流に恵まれた。ひたすらテクストを読み、テクストを書くという孤独のなかにあっても、何処かにいる友との喜悦と信義を絶やさぬようにしたい。距離を介したこうした友愛のうちに研究活動の生命がもっとも瑞々しい仕方で宿るのだから。

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【フランスでの人文書新刊情報】

今春、フランスでは魅力的な人文書の新刊出版が相次いでおり、滞在中大いに感銘を受けたので思想関係の一部の情報のみを速報風にお伝えしておきたい。

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ジャック・デリダの旅行記Demeure, Athènes (Galilée)が刊行された。知人から送られたギリシアの写真数枚とともにギリシアを旅行しながら綴られた断章風の文章だ。2003年のシンポジウムの記録集Derrida d'ici, Derrida de là (Galilée)が出版されたが、デリダに関する催事はほとんど毎年開催されており、5月末にはシンポジウム「脱構築せよ、と彼は言う」がパリで開催されるところだ。Sergeant PhilippeによるDeleuze, Derrida : Du danger de penser 〔ドゥルーズ、デリダ―思考の危険について〕(La Différence)は両者の思想的相違をニーチェとヘーゲルの関係から導き出そうとする好著。デリダ思想から脳科学までを駆使するカトリーヌ・マラブーの新著は、Ontologie de l'accident : Essai sur la plasticité destructrice 〔事故の存在論―破壊的可塑性に関する試論〕(Léo Scheer)で、深刻な心理的トラウマによって人間主体が被る変容を、プルーストやデュラスなどのテクストを引用しつつ論述した著作。

アラン・バデュウAlain Badiouの孤高の健筆ぶりはあい変わらず凄まじい。今年もSecond manifeste pour la philosophie 〔哲学のための第二宣言〕(Fayard)、Circonstances Tome 5 : L'hypothèse communiste 〔情況第5巻:コミュニズムの仮説〕(Nouvelles Editions Lignes)が刊行された。前者は、哲学の危機を打開しようとする10年前の宣言の続編で、10年経ったいま、哲学は商業主義に即したメディア化、政府の御用哲学者化など過剰に拡散することで危機にあると診断する。バデュウはベスト・セラーDe quoi Sarkozy est-il le nom ? 〔サルコジとは何の名か?〕(Nouvelles Editions Lignes)において、サルコジ新政権による「68年の清算」運動をネオリベラリズムの隆盛と絡めて批判しつつ、68年の政治思想の新しさを紡ぎ出そうとした。その続編にあたる『コミュニズムの仮説』では、パリ・コミューン、文化大革命、68年5月革命に即して、反動思想が抑圧してきたコミュニズム的運動が今日的視点から再定義される。

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日本ではまだ知られていないが、アヴィタル・ロネルAvital Ronell(ニューヨーク大学比較文学学科)の人気がフランスの人文業界を席捲している。ロネルはプラハに生まれ、べルリンの解釈学研究所でヤーコプ・タウベスのもとで研鑽を積み、ニューヨーク大学でデリダのゼミを主宰した気鋭の思想家である。フランス語に翻訳されて早くも一年でStupidity〔愚鈍〕がPoints Essaisから文庫化されたが、今年は、『ボヴァリー夫人』論のAddict : Fixions et narcotextes (Bayard Centurion)、真理と試練の関係を問うTest drive : La passion de l'épreuve (Stock)が刊行された。古代ギリシアやキリスト教から現代の思想までのテクストを縦横無尽に引用しながら、真理を獲得するために私たちはなぜ試練や試験に屈する必要があるのか、と問う快作だ。ポンピドゥー・センターでは5月末から6月にかけて、J-L・ナンシーらとともに彼女の連続セミナーが企画されている。英米系と言えば、フランスでの受容が遅れていたジュディス・バトラーだが、近年翻訳が一気に進み、今年は対話集Sexualités, genres et mélancolie : S'entretenir avec Judith Butler 〔セクシャリティ、ジャンル、メランコリー〕 (Campagne Première)をはじめとして関連書が3冊刊行されている。数年前のレオ・シュトラウス受容のときにも再確認したことだが、フランスでは英米系の重要な思想が一気に迅速に受容されることがある。シュトラウスと言えば、最近、La persécution et l'art d'écrire 〔迫害と書く技法〕、La renaissance du rationalisme politique classique 〔古典的政治的合理主義の再生〕がガリマール出版から文庫化されたばかりだ。

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政治思想関係では、ランシエールやナンシーらによる近年の民主主義をめぐる議論を受けて論集Démocratie, dans quel état ? 〔いかなる状態の民主主義?〕(La Fabrique)が刊行され、好調な売れ行きだ。アガンベン、バデュウ、ナンシー、ジジェク、ランシエール、ベンサイドらが民主主義の今日的規定をおこなう多彩な論集である。ホッブズ研究の碩学イヴ=シャルル・ザルカが主宰する老舗の政治哲学雑誌Cités の最新号(第37号)が、特集「評価のイデオロギー」を組んでいるのは注目すべきである。現在の大学改革で新たに評価制度が導入されようとしているなかで、評価の概念を問い、評価と学術活動の関係を問う論考が並ぶ。評価(évaluation)の問題は人文社会系の研究者があらゆる角度から現在取り組むべき緊急の問いである。

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雑誌に関して言えば、まず、今年は20世紀フランス文壇の中心であり続けてきた雑誌「新フランス評論(NRF)」が100周年にあたる。1908年の第1および2号が復刊されると同時に、100周年記念号(第588号「NRFの世紀」)では回顧的なテクストや資料が並ぶ。Alban Cerisierによる通史Une histoire de la NRF〔NRFの歴史〕や、書評欄のアンソロジーL'oeil de la NRF : Cent livres pour un siècle〔NRFの眼〕も刊行された。また、Lignes誌第28号は特集「人間性 動物性」を組み、近年の哲学的動物論(E. de Fontenay, Le Silence des bêtes〔獣たちの沈黙〕 ; J. Derrida, L’animal que donc je suis〔動物ゆえに我存在する〕 ; M. Surya, Humanimalités〔人間動物性〕; J.-C. Bailly, Le Versant animal)を参照した多彩な論考が並ぶ。

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昨年『他者という試練』(みすず書房)が訳出された翻訳理論家・翻訳家のアントワーヌ・ベルマンAntoine Bermanだが、その貴重な資料がL'Age de la traduction〔翻訳の時代〕(PU Vincennes)として公刊された。国際哲学コレージュでの1984-85年のゼミのためのノートの記録で、ベンヤミンの「翻訳者の使命」の読解を通じて哲学と翻訳の関係を考察する。「翻訳者の使命」を20世紀最大の翻訳論としつつ、丹念な注釈を加えると同時に、ガンディヤックによる最初の仏訳を敢えて「悪訳」とみなして引用し再翻訳を試みる。つまり、注釈と翻訳を共鳴させながら、両者の理論的差異を実践的に浮かび上がらせるというきわめて魅力的な演出である。ベンヤミンといえば、Bruno Tackelsによる浩瀚な評伝Walter Benjamin : Une vie dans les textes〔ヴァルター・ベンヤミン―テクストのなかの生〕 (Actes Sud)をはじめとして研究書がいくつか刊行された。

(文責:西山雄二)

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