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【報告】大竹弘二「政治神学的敵対の終焉をめぐって」

2009.03.27 └歴史哲学の起源, 大竹弘二, 時代と無意識

「時代と無意識」+UTCP短期教育プログラム「歴史哲学の起源」の合同演習として、12月3日、大竹弘二の発表「政治神学的敵対の終焉をめぐって――カール・シュミットとハンス・ブルーメンベルク」が行われた。

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大竹の発表は、『近代の正統性』の第一版(1966)の出版をきっかけに生じたシュミットとブルーメンベルクの論争を主題にし、ブルーメンベルクの錯綜した議論を慎重に解きほぐしながら、両者の論争の争点を明らかにするものだった。

大竹はまずシュミットの政治思想を普遍主義批判という観点から導入しながら、『政治神学 II』(1970)出版の経緯を、第二次世界大戦後の政治と神学の状況をシュミットがいかに解釈していたのかを背景にして説明した。シュミットの根本的立場は戦前と変わりなく、一貫して普遍主義的な進歩主義への批判であった。そのときとりわけ批判の対象となるのが、人類が次第に理想へと近づくとする進歩の歴史哲学である。シュミットはそれにアンチ・クリストを抑止するものとしてのカテコーンを対置する。シュミットにとって、カテコーンはキリスト教的な歴史認識の唯一の可能性であった。同時にシュミットはまた、1962年から65年にかけての第二ヴァチカン公会議における教会の現代化、解放の神学の登場、戦後のカトリックのキリスト教神学がアメリカ主義に盲従していることに危惧を表明している。この関連において、『政治神学II』が主要な論敵にするのが、30年代にシュミット批判を暗に展開した神学者エリック・ペーターゾンだった。

いずれにせよ、シュミットが懸念したのは、政治と神学を分離し、普遍主義や進歩主義のうちで政治的なものの可能性の条件、すなわち「敵」を解消してしまうことである。以上のような背景のもとで書かれた最後の著作『政治神学II』には、さらに『近代の正統性』の第一版に対する反論も含まれている。ブルーメンベルクは、シュミットの有名なテーゼ、「近代国家論の枢要な概念はすべて世俗化された神学的概念である」(『政治神学』)に対して、世俗化テーゼは前近代と近代との連続性を前提としているが、自己根拠付けとしての近代は自らの正統性を前近代という歴史的源泉から引き出すのではないと批判するからである。シュミットにとっては、ブルーメンベルクもまた神学と政治の連続性を絶とうする者だったのだ。それに対してシュミットは、前近代から断絶した近代は、進歩と新しさ以外に何も正統性の源泉を持たないと言う。逆に、自己自身を自ら絶対化する近代は、結局のところ神学を自らの絶対的な敵として措定することになる。報告者の私見によれば、おそらくシュミットにとっては、おそらく事態は逆なのであって、近代の正統性はまさにいかなる中性化をも許さないキリスト教神学との連続性、要するに政治神学に存するのである。

しかし、ブルーメンベルクにとっては、神学――正確に言えばローマ教会――と政治――あるいは国家――の親縁性は、歴史的な関係を指示しているわけではない。それは現実に起こったことではなく、あくまでメタファーに過ぎない。大竹が引用するタウベスの言葉を借りれば、「シュミットにとって現実であるものが、ブルーメンベルクにとってはメタファーなのである」(ヤーコプ・タウベス 『パウロの政治神学』)。

問題を神学そのものの解釈に移すとき、先に言及したペーターゾンとシュミットが鋭く対立することになる。ペーターゾンもまた神学と政治の連続性を否定するのだが、そのとき指標とされるのが三位一体の教説の成立である。三位一体は、父と子の和解の教説にほかならない。ここには敵の可能性はなく、したがって政治的なものの可能性も存在しない。それに対して、シュミットは三位一体の教説にさえ敵対の可能性があると言う。あらゆる統一には二性が、反乱可能性が胚胎している。つまり、シュミットは、三位一体のうちにもグノーシス的二元論を見出すわけである。

この神学上の解釈の相違は、そのままブルーメンベルクとシュミットの対立点でもあった。ブルーメンベルクは三位一体に敵対可能性を読み取るシュミットの立場をキリスト教的とは認めない。(神の、一者の)分裂があったとしても、それは和解を予定した自己分裂に過ぎない。

このようにシュミットとブルーメンベルクは、政治神学の解釈においても、神学の解釈においても真っ向から対立している。大竹の発表は、首尾一貫しているシュミットの政治神学的な立場に対して論争を挑んだブルーメンベルクの難解かつ錯綜した主張をいくつかのトピックに整理し、論点を明確にするものだった。ここから展開すべき課題は広範であり、かつ多岐にわたる。以下、歴史哲学を研究対象にしている本教育プログラムの関心から、いくつかの論点を挙げることにしたい。

1. シュミットの歴史哲学:上の要約では触れるだけにとどめたが、大竹はシュミットのカテコーン解釈に言及していた。つまり、『テサロニケ信徒への手紙二』において語られるアンチ・クリストを阻止するもののことである。カテコーンは、終末が訪れる前の必然的な段階として想定されるアンチ・クリストの登場を阻むものであり、したがって極めてパラドキシカルな形象となっている。カテコーンはアンチ・クリストだけではなく、終末の到来をも阻止していることになるからだ。シュミットの戦後の著作活動においては、戦前の国法学者としてのテクストの背後にあったと思われる明確な歴史哲学的な姿勢が前面化することになるが、その核心にあるのがカテコーンの概念なのである。シュミットが「私はカテコーンを信じる。カテコーンは、私にとって歴史をキリスト者として理解し、意味あるものとして見出す唯一の可能性である」と言うとき読み取らなければならないのは、おそらく政治的なものの概念に歴史哲学的な「信」が先行することであろう。戦後シュミットのテクストにおいて前景化する歴史哲学は、戦前のテクストを読解するひとつの前提となるのである。

2. ペーターゾンの神学と歴史哲学:カール・レーヴィットはローマ滞在時、ペーターゾンと知り合っており、後に展開されるレーヴィットの歴史哲学(批判)は、ペーターゾンの教えによるところが大きいとシュミットはみなしていた(ちなみにペーターゾンはプロテスタントからカトリックへ改宗以前の1925年にシュミットと知り合っており、親密な友人関係にあった)。レーヴィットの『歴史における意味』、あるいは『世界史と救済の出来事』における歴史哲学批判が、ブルーメンベルクの『近代の正統性』に再び俎上に載せられることだけを考えても、この関連は非常に興味深い。また本研究会は歴史哲学的な生の自己解釈が、ヘレニズムとヘブライズムの交叉の仕方によって変化するという想定のもとに20世紀の歴史哲学を読解してきたが、この見解自体が一部レーヴィットから着想を得ており、その意味でも、ペーターゾンの『政治的問題としての一神教』(1935)の詳細な検討は、これからの課題である(ペーターゾンによれば、フィロンが試みるアリストテレスの神学のヘレニズム的な改変、つまり、アリストテレス以来のコスモス神学とユダヤ的な一神教的伝統との交叉において、宇宙神学は政治的なもの(ここでは単一支配の概念)と結び付く。シュミットにとっては、これが政治神学の原像のひとつにほかならなかった。この種の政治神学は、ペーターゾンによれば三位一体の教義によって克服されるのだが、シュミットが反論したのはまさにこの点であった)。

3. ブルーメンベルクのメタフォロロギーの対象領野と歴史認識の理論:ブルーメンベルクのメタファーへの関心は、生がまさにメタファーにおいて始原的に解釈可能性を帯びるという洞察に起因するように思われる。そうであるならば、生の自己解釈の枠組みとしての歴史哲学は、出来事という現実ではなく、つねに絶対的メタファーと呼ばれる意味論的な貯水池を必然的に利用することになるだろう。絶対的メタファーとは学的な認識や概念的な認識をつねに逃れる世界と人間との、自然と人間との根本的な関係を特徴付ける言語形象である。たとえば、コスモスはブルーメンベルクにとっては絶対的メタファーであった。そうだとすれば、ブルーメンベルクのメタフォロロギーは、つねに歴史的な生の自己認識に照準を合わせていることになるし、そこにブルーメンベルク自身の「歴史哲学」だけではなく、私たちが研究対象にしてきた歴史哲学的な言説に対する別の接近の仕方も読み取ることができることになろう。

(文責:森田團)

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