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【エッセイ】思想の映像化について

2009.01.11 田中純

思想的言説を表現する媒体の問題をめぐって、時折考えることを問題提起として記します。(田中 純)

時間が少し出来たので、立て続けにブログを書いています。
即時の発信ができる、このメディアの利点でしょう。

『政治の美学』という本を昨年末に出しましたが、ここでは何十年も抱えてきた自分のテーマをめぐる内容もさることながら、書物という形式についても徹底した仕事を残しておきたいと思いました。索引や年表はもとより、解説図や概念地図などという試みを加えたのはその帰結です。せいぜい数千部しか作られず、日本語だけでは読者も限られる学術書など、ある種の地方特産の「民芸品」かもしれませんが、民芸品ならば民芸品なりに、その形式の内部で出来ることはまだ際限なくあるはずでしょう。そして、自分の仕掛けを読み解いてくれる読者は同時代にばかりいるわけでもない。日本語の書物というこの形式に賭ける理由は、それが時代を越えて残りうる物体であると、わたしがいまだに信じているからです。

『政治の美学』がこうした試みの舞台となった背景には、そのなかで取り上げたHans Jürgen SyberbergやKlaus Theweleit の作品からの触発も大きい。Syberbergの映画"Hitler, ein Film aus Deutschland"は長大な映像エッセイとも言うべきものです。対して、"Männerphantasien"をはじめとするTheweleitの著書は本文と関係ない図版を大量に駆使した、書物の映像化と言えなくもない。Theweleitはさらにバンド活動を通して、音楽という表現形態によっても批評を展開している。書物という形式や言語表現を内部から食い破るような運動がそこにはある。

言うまでもなく、Aby WarburgのMnemosyneにわたしが見ようとしているのもそんな運動です。Warburgにおいて読まれるべきものがあるとしたら、それはアーカイヴにうずたかく堆積したメモに乱雑な筆跡で書き残された切れ切れの言葉、狂気の近くで破砕されたような言葉をおいて他にはない。同様に、見るべきはMnemosyneにおける図像同士の共振関係であり、それこそはイメージの歴史的地層に根ざしたダイナミックな精神の運動です。Nietzscheのアフォリズムを解説することがどこか虚しいように、このイメージの次元を欠いて、Warburgを読む意味はほとんどない。(とはいえ、ここでもまた、いったん徹底的な「解説」を試みることは必要でしょう。現在、日本国内の共同研究者と進めているMnemosyneの「解説書」は2010年春に刊行予定です。)

『政治の美学』に収めた概念地図はMnemosyneの模倣です。別のエントリで公開した『政治の美学』の解説ビデオは、スライド・プレゼンテーションを元にした映像化の初歩的な試みです。いずれも技術的には稚拙かもしれませんが、ある種の表現衝動とともに、こうしたメディアを用いる意義については確信があった。日本語であたう限り厳密に書くことを心がけた挙げ句の書物であってみれば、書き終えた今となっては、それをさまざまなメディアで変奏することも許されるように思われました。

個人的な話はこれくらいにするとして、「思想的言説を表現する媒体の問題」と抽象的に書いたことの実質は、たとえば映像や歌で「思想」を語る実践がもっと試みられていいだろうということです。結果的に映画作家や歌手が思想家でもあったことは数多くあるでしょう。たとえばGodard(みずからがアーティストでもあるPD研究員の平倉圭さんの博士論文に期待されるのは、Godardの映画それ自体が表出している、そんな思想の分析です)。けれど、ここで考えたいのは、特異で傑出した映画作家の問題ではなく、思想に対して映像で注釈を加え、映像によって編集するような実験ができないか、ということです。日常的にPowerPointで画像を使って行なわれる「プレゼンテーション」を突き抜けた先に、研究・分析・表現の方法として、「思想の映画」を撮れないか。

SyberbergのHitlerのように過度に寓意化し芸術作品化する必要もなく、ある事件や人物をめぐる優れたドキュメンタリーとは、いつもつねにそんな「思想の映画」だったのだと思います。ただ、そこまで間口を広げずに、わたしの乏しい知識から思い浮かぶものを挙げれば、牛腸茂雄を主題にした佐藤真監督「SELF AND OTHERS」やDavid Barison+Daniel Ross, The Ister (2004)がある。後者にはSyberbergのほか、Lacoue-LabartheやNancy、Stieglerのインタビューが収められている。こんなふうにOral historyの記録も兼ねた、物語性をもった映像を作ることは、日常的な研究活動の一環として、実現可能な範囲ではないでしょうか。(河に沿って3000kmのヨーロッパ横断の旅をするThe Isterは確かに規模が巨大だけれど、それは方法上の難しさとは別次元だと思う。この映画の基本的な構成手法はきわめて単純です。)

思想の原理や原則を言い出せば、Derridaをめぐる映画『デリダ、異境から』(Safaa Fathy監督、『言葉を撮る』というDerridaとの共著もある)が記録しているように、映像と哲学の語りは葛藤を孕むかもしれません。しかし、その葛藤それ自体を映像は記録しえている。

これは数年前から思っていることですが、高齢の人物についてはとくに、Oral historyを残しておかなければならない、という緊急性もあります(書いたもの以外は残さない、という人は別にして)。そうこうしているうちに、話を聞いておきたかった人物が次々と亡くなってしまいました。単純な記録映像からでもとりあえず出発することが、現代の思想史研究者に課された使命なのかもしれません。

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