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【UTCP Juventus】大竹弘二

2008.09.08 大竹弘二, UTCP Juventus

近現代ドイツの社会思想を専門にしている大竹弘二です。
研究プロフィールの紹介をさせていただきます。

 これまでの研究で扱ってきた主題は、おおよそ三つに大別できる。
(1)まず、学部の卒業論文以来のユルゲン・ハーバーマスの思想。
(2)次に、本年度に受理された博士論文で取り組んだカール・シュミットの思想。
(3)そして、折りあるごとに検討を加えてきた20世紀ドイツのユダヤ人哲学者たちの思想である。
 いずれの場合も、これらの思想家たちが国家、国民、国際秩序といった政治的トピックに関心を向けるとき、普遍化可能性と単独性という相反する二つの哲学的要請がいかなる関係を取り結んで現れてくるかという点に焦点を当てた。このことは、一方でグローバリズムに示される普遍性への要求、他方で固有なアイデンティティへの要求という二つの極性を持った今日の世界状況を理解するための端緒になると思われる。

 (1)ハーバーマスは「世界内政」が実現するかに見えた冷戦終結後の90年代に入ると、グローバルな統治の下での戦争のあり方に関心を寄せるようになるが、そのさいの彼の「正戦論」を検討したのが、「J・ハーバーマスと人道的介入の問題―――国際秩序の観点から見た討議倫理の一帰結」(山脇直司他編、『グローバル化の行方』、新世社、2004年、pp.293-312)である。彼は湾岸戦争やソマリアあるいはコソボへの人道的介入といった事例を、戦争が主権国家の手を離れ、普遍的な国際規範の統御のもとに移りつつある徴候とみなす。戦争の「警察化」とも言えるこうした状況を、カール・シュミットは「世界内戦」と呼んで非難していたが、このいわば現代の「正戦」は、ハーバーマスにとり、国際法制の普遍主義的進歩に伴う不可避の帰結なのである。だが、戦争決定を法規範による正統化手続きに従わせようとする彼の「カント主義」的な「世界市民主義」は問題含みである。法規範がさらなる普遍化へと進歩していくのは、従うべき規範の自明性が失われるような例外的状況の出現を契機としてなのではないか。
 ここに示されるような、もっぱら普遍化可能性に基づくハーバーマスの討議倫理の盲点を明らかにしたのが、「規範の法と例外の法―――カント民主主義論のラディカルな再構成のために」(『政治思想研究』、第4号、2004年、pp.119-137)である。討議倫理のモデルはカントの定言命法の普遍化原則であるが、当のカント自身は宗教論における「悪」についての考察のなかで、定言命法そのものに内在するラディカルな例外の契機として、普遍的合意の地平を侵犯し、さらには抹消してしまう「悪魔的な(teuflisch)」悪の可能性を図らずも顕わにした。普遍性と例外は、前者が後者を包括する地平を成すといった一方的な関係にはないのである。

 (2)『正戦と内戦―――カール・シュミットの国際秩序思想』(東京大学大学院総合文化研究科博士論文、2008年)では、シュミットの思想の根本モチーフが、「場所喪失(Entortung)」(普遍性)に抵抗しうるような「場所確定(Ortung)」(一回性)の追求にほかならず、これが彼の国際秩序思想をも導いていることを解明した。彼が人道的普遍主義を非難したのは、単純なナショナリズム的動機からではない。シュミットにとっての問題は、(国際)法秩序の普遍化可能性を拒否し、それを具体的な場所の秩序として打ち立てることであった。そうして彼は、普遍主義を体現する諸々の形象を攻撃し(法実証主義、経済、技術、アメリカ、コミュニズム、ユダヤ人、海、絶対的敵対、進歩の歴史哲学、世界革命的パルチザン……)、具体的な場所の確定をさまざまなかたちで取り戻そうと試みた(具体的秩序、政治的なもの、ノモス、広域、状況、取得(Nahme)、陸、現実的敵対、カテコーン、土地的パルチザン……)。
 しかし、シュミットはその思考行程のなかで、どんな一回的な場所確定であっても場所喪失をもたらす普遍化過程に不可避的に巻き込まれるという困難に繰り返し直面する。彼は場所の固有性を純粋なかたちで取り戻すことに成功しないのである。シュミットが、いかなる法秩序であれ、より一般的にはいかなる言葉や概念であれ、決して完全に脱文脈的な普遍妥当性をもつことはなく、それが根差している一回的な場所、それが有意味性を獲得する固有の場所があると言うのは正しい。彼の欠陥は、そうした場所を、(ドイツであれヨーロッパであれ)特定の地政学的アイデンティティに求めた点にある。シュミット自身他の箇所では正しく洞察しているように、法概念や言語がすべからく「政治的」あるいは「抗争的(polemisch)」であるというのは、むしろ、一回的なそのつどの「状況」に位置付けられていることに由来するはずだからである。
 歴史的に一回的なものに場所を定めることと、何ものも逃れえぬ普遍化の力を認めること。シュミットの思想は法学、政治、国際秩序といったすべての局面において、一貫してこのはざまで揺れ動いていることが分かる。

 (3)普遍性と単独性とが取り結ぶ複雑な緊張関係からは、しばしば範例化の論理とも呼べるものが現れる。「ユダヤ‐ドイツ的ナショナリズムと国際連盟理念―――ヘルマン・コーエンの政治思想」(『社会思想史研究』、No.30、2006年、pp.149-164)では、ユダヤ教とカント主義の普遍主義的理念に忠実であろうとしたコーエンが、まさにそれゆえに第一次大戦期にユダヤ=ドイツの固有性を守るための正戦論を展開するに至った逆説を解明した。
 ある固有なものに普遍的なものを体現させるこうした範例化は、第一次大戦中のドイツでとりわけ顕著に見られ(ヘルマン・リュッベの言う「1914年の理念」)、「現実政治から帝国主義へ―――前期のフランツ・ローゼンツヴァイクにおける世俗化論と世界史観」、(『UTCP研究論集』、第3号、2005年、pp.5-16)で示したように、ドイツに世界史的民族としての使命を託そうとしたヘーゲル主義者ローゼンツヴァイクも当初はそうした立場を取っていた。しかし、「実存哲学から政治へ―――フランツ・ローゼンツヴァイクにおけるユダヤ性の実践的意味」(『哲学・科学史論叢』、第8号、2006年、pp.23-46)では、その後ヘーゲルを離れてシェリングに向かったのと連動するかたちで、キリスト教への改宗を思い止まってユダヤ教に回帰したローゼンツヴァイクが、絶対的な単独性にとどまるユダヤ民族のうちに、帝国主義政治に帰着する普遍化と範例化の論理に抗うメシア的政治の可能性を見るようになったことを明らかにした。
 また、「リベラリズム、ユダヤ人、古代人―――レオ・シュトラウスにおける啓示の二義性」(『思想』、No.1014、2008年)では、シュトラウスの近代リベラリズム批判の立脚点が、一方ではローゼンツヴァイクの影響のもとユダヤ教の啓示経験に、他方では中世イスラム哲学からプラトンへ遡る合理主義に分裂していることを示したのである。

 今後の展開としては、(ここでは詳論しないが)主権をも超えるような例外状態の可能性を認めざるをえなかった後期シュミットの問題に関連して、以下の二つの方向の研究を進めていきたい。
 一方で、近代国家がその当初から主権概念と(国家理性学派から官房学・ポリツァイ学へと至る)技術的統治理論との不安定な平衡関係の上に成り立っていたことを解明するような思想史的考察。
 他方で、70年代に新自由主義的言説によって「統治不能」が宣告されて以降の今日の国家は、消滅するというよりも、フーコーが「統治性」と呼んだような新たな体制のもとで、もはや「主権」国家でも「国民」国家でもない新たな機能を担いつつあることを明らかにする同時代的考察。

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