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【報告】Buddhist Epistemology and Modern Self-Identity in Zhang Taiyan's 'On Establishing a Religion

2008.09.28 中澤栄輔, 「アカデミック・イングリッシュ」セミナー

アカデミックイングリッシュセミナー(*1)の一環としてヴィレン・ムーティーさん(*2)の講演会が2008年6月24日に行われました.

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  ムーティーさんは「Buddhist Epistemology and Modern Self-Identity in Zhang Taiyan’s ‘On Establishing a Religion’」というタイトルで,UTCPの学生を前にとても熱く講演をしてくださいました.

  タイトルからも分かるように,今回の講演はZhang Taiyanの思想についてでした.Zhang Taiyanという思想家については,すでにご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが,中国清朝末期から中華民国時代に活躍した学者・ジャーナリスト・活動家でして,漢字で書くと「章太炎」となります.日本では号を用いて「章炳麟」と呼ばれることが多いようです.清朝の弾圧によって1906年に日本に亡命して,孫文らが設立した中国同盟会の機関紙『民報』の編集をしました.辛亥革命の成功に尽力したと評価される人です.

  辛亥革命のあと,1912年に中華民国ができて,そのときから中国の近代が始まったとします.すると,章炳麟は新しい社会を模索して中国の近代を形作った中心人物のひとり,ということになるわけです.清朝末期という(たぶん)混乱した社会情勢のなかで,次の時代を切り開いていこうとした章炳麟のような人はいったいどのような思想や理想を持ち,新しい社会を模索したのか.これはなかなか興味をそそられる話題です.そして,彼の思想の行き着いた先が仏教だった,というとさらに興味深いのではないでしょうか.

  しかし,なぜ章炳麟の思想が仏教的であるということを興味深いと感じるのでしょうか.おそらく,それは「近代」と聞いてイメージするものと「仏教」と聞いてイメージするものがなかなか結びつかない,というところに根があるのではないかと思います.近代と仏教の関係はどういったものなのか.これはとても難しいです.しかし,あえてムーティ―さんの講演はこの「近代と仏教の関係」という難しいテーマを扱いました.

  「近代のイメージ」と上で書きましたが,一般的に近代のイメージは,科学,資本主義,国民国家,という感じでしょうか.しかし本質的なことを問いはじめ,そもそも近代とはどういう時代か,近代性とはなにか,と考えだすやいなや,これはなかなか難しい問いだと分かります.ムーティ―さんはルカーチを引用しながら,近代を主観性と客観性の二元論的な対立に基礎づけられた時代と特徴づけるわけですが,もしかしたら別の考え方もあるかもしれません.

  とはいえ,ムーティ―さんが言うように近代が主‐客の対立に根ざした時代だとすると,そうした近代と仏教との関係はどうなるのでしょうか.章炳麟と同時代に,梁啓超という文筆家・思想家は仏教思想に含まれる「平等」という観点に着目し,仏教思想は近代を超えるものと考えました.近代的な資本主義社会の副産物が経済的格差の増幅だとしたら,平等というアイデアを含んでいる仏教思想はアンチ近代という性格を持つわけです.そして,その梁啓超の考えを発展させたのが章炳麟です.

  「平等」に着目して近代と仏教思想を対比させるのはとても分かりやすい構図なのですが,そこからさらに進んだ章炳麟の思想はたんに政治や社会のシステムの話に留まりません.章炳麟は政治や社会のシステムの基礎論として人間の認識のしかたを問います.つまり,人間が世界とそもそもどのようなしかたでかかわっているのか,という非常に哲学的な問いが政治や社会のシステムを語るうえで重要だと章炳麟は考えているということだと思います.そこまで問い進めていったとき,近代と仏教の関係がようやく見えるようになってくるのです.

  章炳麟は仏教思想のなかでも唯識思想に着目します.唯識で八識と言われる意識の8つのレベルのうちでもっとも高次(あるいは深層)なものと考えられている2つの意識,末那識(7番目・まな識・manas consciousness),阿頼耶識(8番目・あらや識・ ālaya consciousness)のコンビネーションが人間の世界認識の根本だと考えます.この末那識と阿頼耶識の関係がほんとうに難解なのですが,阿頼耶識というのは究極的な意識のあり方で,自己も対象もないような原初的統一体,末那識は阿頼耶識のみを対象にしている自己意識,というところまでは理解することができました.

  ともあれ,このようにして唯識をもとにして人間と世界の関係を考えていきますと,梁啓超がやったように平等という概念を軸にして仏教思想と近代資本主義を対立させるのは少し理解が浅いのかもしれません.章炳麟が考えていたのは主観と客観の分離という近代の認識論的基礎がどのようにして発生するのかということで,それは近代の起源を徹底的に問い直すということです.

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  章炳麟は近代という時代をたんに否定的に捉えたのではなく,その起源にさかのぼって近代の本質を明らかにしようとしました.これがムーティ―さんの主張(の少なくともひとつ)です.こうしたムーティ―さんの議論はUTCPで行われた次の講演「近代の超克と資本主義の超克」に引き継がれました.この報告はこちらからどうぞ.


*1 アカデミックイングリッシュセミナーとは大学院総合文化研究科の特設科目として今年度から始まった「共生のための国際哲学」プログラムに組み込まれている,UTCP所属学生向けの授業です(正式名称「共生のためのリテラシー実験実習 I」).

*2 Viren Murthy.シカゴ大学で歴史学のPhDを取得後,現在オタワ大学歴史学部准教授.2008年夏学期中,UTCPに滞在しました.非常にまじめ,熱心,知識豊富な人です.日本語にはすでにかなり精通しているのですが,それでも学習意欲は衰えず,UTCP滞在中は私たち研究員の日本語(くだけた言い回しまで)の単語の意味を熱心にメモしていました.
オタワ大学のムーティ―さんのページはこちら


中澤栄輔

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