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【UTCP Juventus】高榮蘭

2008.09.06 高榮蘭, UTCP Juventus

UTCP若手研究者研究プロフィール紹介の第16回は、PD研究員の高榮蘭が担当します。これまで、近代日本における文学とナショナリズムの編成について研究して来ました。

Ⅰ 研究について
 文学テクストに刻まれている「非戦」「連帯」「抵抗」の言説が、移動・植民・占領が引き起こす文化の接触によりどのように変容されてきたのかについて興味があります。博士論文は、「近代日本語文学とアイデンティティーの表象に関する研究」(日本大学)について書きました。その後、2004年から2006年にかけては「SCAPの占領政策と日本語文学の編成に関する研究―1940~60年代の朝鮮・日本・台湾」により、日本学術振興会外国人特別研究員として研究に従事してきました。現在は、これらの研究を、1920年代から40年代の「東アジアにおける帝国と文化資本の流通」に関するテーマに接合させながら、研究発表や論文を書いています。

(1)「戦後」というバイアス
 52年4月28日のサンフランシスコ講和条約(51・9に調印)の発効以後、文学研究において島崎藤村『破戒』は、日本の「国民文学」として位置づけられます。この小説は水平社に始まる部落解放運動の盛り上がりのなかで批判され、部分的な改訂を余儀なくされました。しかし、その改訂自体に、1930年代に部落解放運動が一君万民的な皇民化運動のなかに巻き込まれていくプロセスが書き込まれていくことをとらえ、『破戒』の「国民文学」への再生には、このような戦争協力への記憶の忘却が附随していることについて指摘しました。また、『破戒』における主人公丑松の「テキサス行き」を日露戦争前後の「移動」の言説としてとらえ、そこに朝鮮・台湾への移動とは異なる、植民地領有への欲望が附随していたことについて発表しています。『破戒』の問題は、戦後の文学研究や歴史研究の学界で社会主義・無政府主義のレッテルがあれば無批判に称揚する傾向があったことと深く関わっていることに気づき、幸徳秋水ら明治の社会主義者が抱えていた多面的な複雑さを一元化せずにとらえていく必要性を唱える論文を書きました。上記の論は、金子明雄・高橋修・吉田司雄編『ディスクールの帝国 明治三〇年代の文化研究』(2000・新曜社)、「非戦/反戦論の遠近法 ―幸徳秋水『廿世紀之怪物帝国主義』と<平和主義>の表象 」(岩波書店『文学』2003年9・10月号)、「『破戒』―『国民文学』としての再生」(青土社『現代思想』2005・6)などに発表しています。
(2)「共闘」をめぐる思考の陥穽
 明治の小説や思想家のテクストを研究する過程で、上記のテクストを読み直す作業だけではなく、むしろそれらの対象を意味づけてきた戦後日本の文学・歴史研究の枠組み自体をとらえ直すことが必要であることに気づきました。1945〜52年の戦後占領期でいえば、冷戦の始まりを大きな背景としながらもアメリカ占領軍、日本政府、そして戦後革命を目指した共産党といった三つの柱がそれぞれ内部に葛藤を抱え、相互に激しく対立しながら駆け引きを展開していました。これらの闘争には、日本人と朝鮮人が共に関わっているため、現在の研究は、当時の状況を「共闘」という言葉で神話化して来ました。しかし、1970年代になって「在日朝鮮人」として括り出されていく書き手たちの活動も、55年体制以前においては、例えば、金達寿や許南麒などが、朝鮮人としてではなく、日本共産党員としての「私」という主体を前景化させ、彼らに対する当時の高い評価も、日本の「国民文学」の枠組みの中で行われていたのです。このように、この時期の朝鮮人の書き手は、アメリカ・日本・朝鮮の、それぞれ境界が曖昧で、互いに内部にくい込んでしまった政治的な関係を表象していたのですが、日米安保体制の恒常化と日韓国交回復によって、逆に「在日」の文学として日本文学の地図に位置を与えられるようになったことが見えてきたのです。このテーマに関する論は、「文学と<一九四五・八・一五>言説―中野重治「被圧迫民族の文学」をてがかりに」(2002年5月、日本近代文学会『日本近代文学』2002・5)「〈共闘〉する主体・〈抵抗〉する主体の交錯―東アジアの冷戦と「小説家・金達寿」「詩人・許南麒」の浮上」(日本文学協会『日本文学』2007・1)などがあります。 また、これらの枠組みが編成される「共闘の場における「女」表象」について、今月17日に、オックスフォード大学で開かれる「小林多喜二シンポジウム」(http://www.takiji-library.jp/announce/2008/20080605.html)で発表する予定です。
 (3)東アジアにおける帝国と文化資本の交錯
 (1)と(2)の研究を進める過程の中で、「大日本帝国」の時代の内地や植民地において、どのように、文学や文化の言説が生成し、それらはどのように反発や呼応を繰り返しながら、相互嵌入していったかを検証するテーマが見えてきました。このテーマは、現在参加している、慶應義塾三田図書館に寄贈された旧改造社関係資料を調査・分析するプロジェクト「改造社を中心とする20世紀日本のジャーナリズムと知的言説をめぐる総合的研究」における資料分析の作業と同時に進行させています。このテーマに関する論は、「戦略としての<朝鮮>表象―中野重治「雨の降る品川駅」の無産者版から」( 日本近代文学会『日本近代文学』2006・11)があります。なお、口頭発表としては、Proletarian Culture and Nationalism in Japanese Colonized- Korea: Proletarian Culture and Resistance in Pre-war East Asia(University of Leiden 、2006・11・3)があります。また、1930年代、改造社の満州と朝鮮における販売戦略について、今年の11月と来年の1月に、韓国や日本の国際会議において、口頭発表を行う予定です。

Ⅱ 現代小説の評論について
 現代小説に関する評論を、友人らとネットで公開しています。
「火星クラブ」http://www007.upp.so-net.ne.jp/kaseiclub/
2000年代以後に入って、話題になった小説を取り上げながら気づいたのは、9・11以後、GHQによる日本への占領の記憶が召喚されることが多くなってきていることです。この現象は、メディア言語、小説の言語、批評の言語をめぐる状況だけではなく、アカデミックの領域における歴史の相対化の問題と連動しています。この問題について考えるために、UTCPプログラムの枠で、9月に行われるオックスフォード多喜二シンポジウムの期間中に、ワークショップを企画しています。「暴力の記憶と小説の現在」というタイトルで、「9・11」前後に注目を集めた小説を取り上げ、小説言語における装置としての「暴力の記憶」について議論する予定です。このワークショップは、UTCPの中島隆博教授と、多喜二シンポジウムを企画している女子美術大学の島村輝教授の協力を得て実現しました。

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