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【UTCP Juventus】 李英載

2008.08.21 李英載, UTCP Juventus

UTCP若手研究者プロフィール紹介の第9回目は、RA研究員の李英載(表象文化論・映画史、韓国映画)が担当します。

私は韓国を中心にした東アジアの映画史を研究しています。同時代の映画に関して評論を書いてきた私が史的な領域に興味を持つことになった切掛けは映画というテクノロジー、表象装置が帯びている自己民族志(auto-ethnography)的な側面を認識してからであります。つまり植民地において自己民族志は外からの視線によって触発され、本国の用法に沿って作られる。しかし、韓国映画史は自分の前史としての「朝鮮映画」のこのようなメカニズムを隠蔽する限りにおいて成立します。(「帝国とローカル、変転する叙事―『孟進士宅の慶事』をめぐる民族表象」『映像学』No.75、2005、東京/「二つの国家、一つの映画」 Forum Trans、 2006、ソウル/Dual Language, Dubbed Cinema: Propaganda Films of Colonial Korea、The Asian Studies Conference Japan 2007、東京)

1.そのような問題意識から始まった研究は、1937年の日中戦争から1945年の終戦までを研究対象とし、植民地朝鮮人、より正確に言うと朝鮮のエリート男性と植民者の両者のあいだでなされた連帯と競合の様相を明らかにすることに重点を置いてきました。ここで問題となるのは、こういった提携がどのようなメカニズムによってなされたかということであります。1930年代後半、日本と朝鮮の知識人たちはローカリティーという言説を通して短いながらも幸せな蜜月関係を保っていました。日中戦争の勃発とともに銃後の空間として浮上した朝鮮は、少なくともこのローカリティーの言説の領域内では日本の内部(内鮮一体)として認識されなければならなかった。つまり、戦争を遂行する帝国の普遍主義という脈絡のなかで、植民地のエリートたちはテクノロジーを媒介にして植民性の脱皮という企画に乗り出すことができたのであります。(「テクノロジーと協力」、『尚虚学報』、No.22、2008、ソウル) たとえそれが現実離れした概念的なレベルのものだったとしても、この企画は植民地朝鮮と以後の後期植民地としての大韓民国とをつなげる強力な端緒となりました。なぜなら、この企画は被植民者たちが帝国の国民の名で呼び出されたその瞬間に作動し得たものであり、ひいてはそれが夢見る対象として可能になったからです。このことは、後期植民地の国民国家の主体として浮上した彼らが、ある種のシステムとしての国家装置の作動者-遂行者-参加者として「国民」であることの練習を経験したことを意味します。(『帝国日本の朝鮮映画』現実文化社、2008、ソウル(単行本))

2.植民地末期に帝国と植民地の間で行った一連の事情は、近代国家のアポリアを集約的な形態で見せます。「朝鮮」が「半島」に変わり、植民地という言葉が(少なくとも言説の次元で)なくなったとき、行ったことは次の三つで要約できます。徴兵制、義務教育、参政権。もちろん、そのなかで実際に実行されたのは徴兵制だけでした。しかしながら日本語の解読と直結される義務教育は至急な実行が促されたし、余儀なく公民権の問題を呼び起こしました。言い換えれば、戦争末期に植民地朝鮮の状況は国家と政治的な生の問題を見せてくれるという点て「普遍的」であり、戦後日本と後期植民地国家である大韓民国という二つの国家の構成原理を既に内包しているという点で連続性を持っています。
 最近完成した論文「皇軍の恋、なぜ兵士ではなく『彼女』が死ぬのか」(International Forum: Modern Korea at the Crossroads between Empire and Nation、2008、ソウル)では、このような問題意識の続きで「徴兵制」の問題を検討しました。戦争という例外状態を媒介に被植民地人という例外的な存在から脱する可能性を夢見た朝鮮人は1943年最初の徴兵制の時間に直面します。生物学的な身体が強制された死と対面するとき、初めて朝鮮人の政治的な生命の姿が現れ、この若い兵士の身体を通じて朝鮮人全体の政治的な生命が活性化されます。1943年に作られた徴兵制宣伝映画『朝鮮海峡』は、以降の大韓民国で作られるメロドラマの原型を先取りしているという点で意味深いです。つまり、この映画は徴兵制国家である大韓民国のメロドラマのナラティブを予告しています。要するに、待たせる権利を持つ男性=国民兵と待つことによって国民になる女性の誕生がそれであります。しかし、植民地で作られた徴兵制の物語が意味するのは次のようなものです。植民地において国家は決して自然的なものにならない。従って、植民地で想像される徴兵制のメロドラマこそ作為としての国家の原理を残酷にむき出す。

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