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【学会参加報告】 The 12th International Conference of the History of Science in East Asia (第12回東アジア科学史国際会議)

2008.08.30 中尾麻伊香

  私は2008年7月14日から18日にかけ、ジョンズ・ホプキンス大学にて開催された第12回東アジア科学史国際会議に参加し、研究発表を行った。私の発表内容を中心に、今回の報告をさせていただきたい。

  この会議は3年に1度世界各地で開催されており、12回目となった今回は参加者も200名以上という規模になった。会場となったジョンズ・ホプキンス大学には、中国、台湾、韓国、日本はもちろん、アメリカやヨーロッパから東アジアの科学史を研究する研究者が集った。日本からは20名弱が参加した(日本からというのは、日本の大学に籍を置く研究者という意味である。海外で活躍されている日本人研究者や日本で活躍されている海外の研究者も多く、参加者の国籍と研究拠点は一括りにはできずバラエティに富んでいた)。

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  会議は5日間にわたって200件近い講演と発表があり、同時に6~7本のセッションが開催された。私は初日の午後、第二次世界大戦中の日本における核兵器開発をテーマとするセッションで発表を行った。日本は第二次世界大戦中に原爆開発に着手した6カ国のうちの1つで、陸軍が理化学研究所に依頼したニ号研究と海軍が京都帝国大学に依頼したF号研究という2つのプロジェクトがあった。このセッションはアーキビストのTomoko Steen氏がオーガナイズし、Horace Judsonジョージワシントン大学教授がチェアーを、Kim Dong-Wonジョンズ・ホプキンス大学客員教授がコメンテーターをされた。科学史研究者の間でも日本の原爆研究についての関心は非常に高く、会場には多くの聴衆が集まった。日本の原爆開発史研究における第一人者である山崎正勝東京工業大学教授が理研のニ号研究について発表され、香港大学のFung Kam-Wing准教授、高エネルギー物理を専門とする政池明京都大学名誉教授がそれぞれ、京大のF号研究について発表された。両氏はともに2005年に米国議会図書館で発見された清水明と植村吉昭の研究ノートをもとに、京大における核研究の内実を検討した。

  この3名に続いた私の発表は、原爆研究そのものではなく当時の社会に流通していた言説を対象としたものだ。日本の原爆イメージは、広島・長崎の経験を起点として戦後に形成されてきたと思われているが、戦前においても原爆についての話題は登場していた。原爆という兵器の存在は1940年代にはいると大衆雑誌や新聞などで頻繁に語られるようになり、敗戦色が濃くなってくると戦局を打開する起死回生の新兵器としてプロパガンダに用いられていた。発表では原爆イメージがだんだんと輪郭をなしてくる過程を示し、そのなかでのさまざまなアクターの役割を検討した。戦前から戦時中にかけての日本における原爆イメージの全体像はこれまでまったく調査されてこなかったため、会場の反響は大きいものだった。

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  発表後は活発な質疑がなされた。会場には物理学史の専門家が多数参加されており、自分の父親や指導教授がマンハッタン計画に携わっていたという方々からは当時の回想とあわせて、アメリカでは原爆の情報はトップシークレットであったが故に日本でこれだけオープンに原爆の情報がでていたことが大きな驚きであるという感想をいただいた。また、ドイツからの参加者にはドイツとの比較をすると面白いのではというコメントもいただいた。さらに発表のあとには、今後の出版の予定について尋ねられたり、来年の国際学会で一緒に発表しようと声をかけていただいたり、このセッションを雑誌の特集号とする話が持ち上がるなど、今後につながる収穫がたくさんあった。

  結果としてセッション全体も私の発表も大成功であったといってよい。また、ここではスペースの都合上報告しないが、このセッションの後に戦時期日本の生物化学兵器開発をテーマとするパートが続いた。こういった戦時中の兵器開発の歴史研究は容易ではないが、その実相を調査し世に問うていくことは歴史家に課せられた重大な役割である。そこでの課題はいかにセンセーショナリズムに惑わされずに綿密な調査分析をできるかだろう。「日本も原爆を開発していたのだからアメリカの原爆投下は正当化できる」といったような安易な議論に絡めとられないように注意していきたい。

  会議全体を通して目立ったのは、中国における身体の表象や、数学や天文学に関する研究である(もともとこの会議が中国の数学と天文学の歴史に関するものとしてスタートしたことも影響している)。これらの研究における大きな関心のひとつは、科学知識がどのように国や時代を超えて伝播・継承されていくのか、あるいはそれらがいかに断絶・変容していくかということである。”Tribute to a Generation”という今回の会議のテーマはそうした関心を自らの研究分野にも投影したようであった。会議に参加したのは教授ばかりでなく、若手研究者や大学院生も多かったが、彼らは(私も含め)20世紀以降という比較的新しい時代を対象とする傾向があり、新たな研究手法を模索しているように感じた。 

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  そんな中、国や世代を超えた交流も活発になされた。私は2004年の冬にソウルで開催された東アジアSTS会議に参加したが、その時に出会ったソウル大学の院生たちとの約3年半ぶりの再会は感慨深いものだった。ソウル大学の科学史科学哲学教室では院生の研究活動に対する厚いサポートがあり、今回も10名程度の院生が参加した。台湾でも院生の発表への積極的な支援があると聞いた。一方、日本の大学から参加した院生は私を含めて2名だった。これまで幾度か、なぜ東大の院生は積極的に外にでて発表をしないのだと尋ねられてきたが、院生自身が消極的だというより研究機関のサポート体制の問題が大きいのではないかということを感じた。UTCPではそのような状況の中、若手研究者が国際的に活躍することを積極的に支援しており、国際交流の新たな流れを作っている。この流れが今後ますます発展していくことを願う。

  学会が終わって帰国してから1ヶ月ほどの間に、今回の学会で出会った研究者が何名か来日され、東京で再会することができた。今回の学会参加は私の研究生活において貴重な機会となった。この渡航を快く支援してくれた信原先生、小林先生はじめ関係者のみなさまに感謝している。 

※写真は上から、会場となったCharles Commons、発表会場の風景、ジョンズ・ホプキンス大学構内。また学会期間中に国立衛生研究所、議会図書館、メリーランドサイエンスセンターなどを訪れることができた。またの機会に報告できればと思う。

中尾麻伊香 (UTCP若手研究員)

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