Blog / ブログ

 

【報告】学問にできること―「哲学と大学」第5回 「マックス・ウェーバーの学問論」

2008.07.07 └哲学と大学

2008年7月3日、公開共同研究「哲学と大学」第5回が実施され、野口雅弘 (早稲田大学政治経済学術院・助教)が発表「マックス・ウェーバーの学問論――大学のアメリカ化と知識人の「責任」」をおこなった。『職業としての学問』(1917/19年)が集中的に読解され、そのアクチュアルな解釈が披露された。

noguchi4.JPG

『職業としての学問』において、ウェーバーは二つの流れと対決している。一つ目は、第一次世界大戦後の政治の横溢状況のなかで、大学の講堂に「指導者」を求め、「生き方」を聞きに来る若者たち。二つ目は、アメリカ的な技術的手段としての学問である。

学問は世界観を教授するのか、それとも、生活上の技術を提供するのか――1910年代、大学モデルの趨勢はドイツ型モデルからアメリカ型モデルに決定的に移行した。膨大な研究予算によって工業化や専門化が促進されるアメリカ型の大学が優位となり、生き方の基準となる原則の研究教育を掲げてきた大学先進国ドイツが凋落し始めたのである。

なるほど、ウェーバーはこの講演のなかで、学問は「生き方」を教示するものではなく、研究の専門化に随従しなければならない、と若者たちに厳しく説く。彼はアメリカ的な実証主義の視座からドイツの学問観の後進性を批判しているようにみえる。だがしかし、野口氏によれば、ウェーバーはアメリカ―ドイツ双方の理念から距離を取りつつ、その両義的な立場から学問の意義や学術への態度を規定しようとする。

noguchi3.JPG

ただ、ウェーバーの戦略は安易な相対主義に帰着するものではなく、むしろ諸々の価値対立のなかでの態度決定の責任と切り離せない。彼は、「もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる」と言う。つまり、自分が態度決定をおこなうことで、何らかの犠牲がつねに生じていることを自覚させ、対立関係やジレンマに敏感であるように促すことが学問の「責任」なのである。専門に没頭することによって、より広範な視野で、他の価値の犠牲に対する感性を洗練させること――これこそが「学問としての学問がなしうる最後の功績」であり、また「学問の限界」なのである。

その他にも、不安定な身分だが自由な「私講師」と常勤職だが自由のない「助手」という研究者の類型、もっとも厳しいウェーバー批判者レオ・シュトラウスの評価、価値対立の表面化が見えにくい冷戦以後の脱政治化状況、といった興味深い主題が議論された。

ウェーバーは学問にできることとして、①技術に関する知識の教授伝達、②思考の方法、そのための用具と訓練の提供、③明晰さと責任という教師の義務、を挙げている。野口氏は「この規定はあまりにもシンプルだったので、若い頃に初めて読んだときにはかなり拍子抜けした」と告白する。これに対して、未來社社主・西谷能英氏は応答する、「ウェーバーは学問の単純な限定を提示しつつ、だがしかし、その枠内では徹底的に学問を追求しなければならないとする。つまり、学問の限界に触れ続けなければならないのだ。学問におけるこうした徹底性の追求に読者は胸を打たれるのではないか」、と。

『職業としての学問』はかくして、学問の素朴な自己限定と学術活動の過度の情熱が共存する稀有なテクストであり、「学問にいったい何ができるか」という問いの前で逡巡する多くの読者をこれからも魅了し続けるだろう。『職業としての学問』の結論にいささか拍子抜けした野口氏がドイツおよび日本で研究書を刊行し、気鋭のマックス・ウェーバー研究者として活躍していることがその何よりの証左だ。

(文責:西山雄二)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】学問にできること―「哲学と大学」第5回 「マックス・ウェーバーの学問論」
↑ページの先頭へ