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時の彩り(つれづれ、草) 033

2008.05.23 小林康夫

☆ UTCP的(ある日のUTCP)

20日にライデンからいらしたアクセル・シュナイダーさんの講演があって、わたしは所要があって出席できなかったが、そのあとでオフィスにみなさんがいらした。

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シュナイダーさんとはライデン大学の「現代東亜研究所」が企画している三都セミナーのひとつをUTCPで行う件を話しあったのだが、そのテーブルには、オーストラリア国立大学からいらしたリッキー・カーステンさんもいれば、パリのEHESSから来ているわれらが友人ジョエル・トラヴァールさんもいる。そしてUTCPの事業推進担当者やPDたちだけではなく、駒場の中国語部会の村田さんや石井さんもいてくれた。

自然とみなさんがオフィスに集まって将来の共同研究計画の話をして、その場で決められることがあっさりと決まっていく。実は、この直後には、カナダからヴィレン・ムーティさんも到着というわけで、とても自然な流れで数カ国の研究者のネットワークができあがり、実質的に機能しはじめているのを見ると、わたしとしては、「これこそがUTCP!」とちょっと感慨深い。こういう動き方がもはや世界の人文系のスタンダードなのにちがいない。

この日のメンバーは中国研究者や日本研究者が中心だったが、このような人の網がいくつも多重的に重なっていくことが「UTCP的」。それが広がることを目指している。


☆ 「若さ」(パリ五月革命つづき)

今月14日の西山雄二さんのパリ五月革命についての発表に関しては、すでに藤田さんの適確な報告もアップされているが、その日わたしにとっての衝撃は、わたしがコメントできわめて自発的に「若さ」という問題を語ったのに対して、西山さんに、それはエマニュエル・レヴィナスが言っていることで、だいたいレヴィナスのそのテクストを翻訳しているのは小林康夫である!と反撃されたこと。いや、びっくりした。ぜんぜん覚えていなかった。

今日、研究室の本の山のなかからようやく、わたしが18年前に訳した『他者のユマニスム』(水声社、1990年)を探し出してみてみると、なるほどその最終章はまさに「若さ」。「1968年の特権的な瞬間」に触れながら、レヴィナスは「若さは真正さである」と言っている。――「だが、それは、告白の粗暴さや行為の暴力ではなく、他人への接近であり、隣人の引き受けであるような、人間の傷つきやすさから来るような誠実さによって定義される若さである」。

わたし自身は、「若さ」を、舗道の下の砂浜が象徴するような、文明以前のものへ、すでにあるもの以前のものへの想像力という角度で使ったつもりだし、レヴィナスが言うような「人間の傷つきやすさから来る他者の引き受け」は、むしろそれこそが「成熟」というものだろう、と言いたい気がしているが、でもこのように忘れていた自分の過去に逆襲されるというのはなかなか興味深い。他者の思想がいつのまに自分の肉体のなかに溶け込んでしまったということなのか、それとも単に老いのもたらす恩知らずの忘却なのか。まあ、どっちでもいいのだが……

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