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【報告】UTCPワークサロン 「古典的人間像 西洋編」

2007.12.13 中島隆博, 村松真理子, 小林康夫, 高田康成, 宮下志朗, 大貫隆, UTCP

われわれの時代における古典とはなにか。「古典的人間像」第二回目の今回はこの問いをヨーロッパの文脈のなかで問うことであった。

司会者である小林康夫リーダーは話の切り口としてマザッチョの絵画「三位一体」(1425)を例に挙げた。彼によるとこの絵が意味するのは、計算可能なものとしての普遍的人間像という表象の出来事であった。では、その当時から現在に至るまで人間像なるものはどのように変わってきたのだろうか。近代に対しての問いとして西洋古典の探求(高田康成)という観点から活発な議論が交わされたが、ここでは「人間像」と「クラシカル・ターン」という二つの言葉でまとめることにする。

人間像
小林教授はまず、ルネサンス、19世紀後半、現在という三つの時代を説明するために、表象、(個人的なものとして)表現、デザイン(個人的表現の大衆化以後)という三つのキーワードを提起したが、このような変化のなかで人間像というものがどのように変わってきたのか。高田教授はこの三つの段階をそれぞれpersona-identity-identitiesに対応させた。彼によるとマザッチョの「三位一体」はpersonaの登場を意味するものであった。それは19世紀、医学的同一性のもとでidentity、すなわち「自己同一化」に変化する。彼は、現在は複数のアイデンティティ、留保をかけた表現としてidentitiesの時代であろうという。大貫隆教授は聖書の世界の中で唯一の遠近は神であったことを指摘しながらペルソナには「仮面」の意味があることを想起させた。つまり、三位一体においてペルソナは人間に響いてくる神の言葉とつながっているものであり、そういう意味でペルソナとは「自分ではないもの、他者としてのもの」である。
そこで、ペルソナと聖なる声を関連させた宮下志郎教授は、12、3世紀頃のできごととして、この声がもはや常に聞こえてくるものではなくなったことを指摘した。その時、知識のプロができたという。普遍的人間像というトピックは、ペルソナというキーワードのなかで超越性と個、内在性の成立に続いていく西洋思想史の考察まで進んでいった。

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クラシカル・ターン
ふたたび古典とは何か。「サイードが使っているphilologyという言葉は、今われわれが話している古典と似ているものではないかと思っています。それはオルターナティブな可能性としてのphilologyです」(宮下)。中島隆博準教授は1930年代に行われた日本における古典復興という先例を挙げ、それとは違う可能性としての古典復興が可能かということを問いながら、われわれにとって古典とはなにかという問題を提起した。大貫教授と小林教授は古典が持っている異質性に注目する必要があると語った。つまり古典とは自らのものではない、他者のものであり(小林)、普遍性の問題として理解されるべきである(大貫)という。
ならばオルターナティブな可能性としてのクラシカル・ターンはどのようにして実現できるのか。そこで村松準教授は古典とは「解釈(interpretation)の場」であると言った。それは高田教授のいう「自分が属している文化の限界を見るようにしてくれる」ものとしての古典の意味と相通ずるものである。たとえば、シェイクスピアにとって自然の充満を意味したlustという単語が自然と人間との関係変化のなかで現在のようなネガティブな意味に定着した経緯を徹底的に読み取ることこそ古典教育の力であるということなどである。
そういう意味で、近代的人間像を探求するためには、「マックス・ウェーバーを経由したパウロを読む必要がある」と力説した大貫教授の方法論は、「クラシカル・ターン」という今回の議論をもう一度考え直させる例であった。それは文献学(philology)のパラドックス(「根拠を求めていくが、いけばいくほど根拠はない」(高田))それ自体を直視しながら進んでいくことによって可能となるだろう。(李英載)

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