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【報告】 ジン・Y・パク氏 「仏教と脱構築」

2007.12.19 セミナー・講演会

12月17日(月)、American UniversityのJin Young Park教授を迎え、『仏教と脱構築Buddhisms and Deconstruction』というテーマで講演会が開催された。

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Park教授は、仏陀の思想(仏教)とデリダの思想(脱構築)の類似性を、各々の使用する特徴的概念を解説しながら指摘し、二つの立場がいかなる倫理的立場を導き出すかを示した。

講演と議論は、全て英語で行なわれた。講演会が行なわれた比較的小さな部屋は聴講者で満席となり、和やかな雰囲気の中で講演会は進められた。冒頭、韓国出身で現在米国で教鞭をとられているPark教授は、今回の日本訪問で感じた韓国と日本の文化の類似性や相違などの印象を軽く語った後、ここ数十年における仏教思想や禅思想と西洋の大陸系哲学の比較研究の動向を簡単に辿られた。

講演の本題は、近年盛んになりつつある、仏教思想とポストモダン思想の比較研究、具体的には、仏陀の思想とデリダの思想の比較研究であった。Park教授は、中道middle path、縁起dependent co-arisingなどの仏陀の思想の基本的概念について解説したのち、デリダの脱構築の思想の基本概念であるdifférance(「差延」)を取り上げ、二人の思想の類似性を指摘した。デリダの造語であるdifféranceという概念の”-ance”は、能動(「差異化すること」)でもなく受動(「差異」)でもない中動態middle voiceを表している。デリダの「差延」概念に込められた”middle”と、仏陀の中道の”middle”は、どちらも、存在と非存在、主観と客観、能動と受動、肯定と否定などの基本的区別を知的活動の大前提とする「実体論substantialism」的思考の限界への挑戦の中で登場した概念である。印象的だったのは、仏陀が弟子の質問に対して沈黙によって答えることに関するPark教授の解釈である。仏陀の沈黙は、一般的には、抽象的な哲学への仏陀の拒否感を表すものと解釈されているが、Park教授は、仏陀の沈黙は、仏陀が、形而上学や実体論的思考図式の限界を示すことで自らの哲学を表現するためにとった方法であったと説く。当時仏陀が論敵とした知識人たちは、鈴木大拙による英訳では”Philosophers”と表現されるが、それは、実体論的思考図式の中で思考する者たちということを意味しており、その意味で、デリダが対決した西洋哲学の伝統の中の「哲学者」と同じなのである。

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彼らの思想は現代においていかなる意義を持つか。Park教授が焦点を当てるのは、彼らの思想が作り出す新しい倫理的パラダイムである。それについては、いくつかの論点が簡単に提示され、詳細は続くワークショップに持ち越されることになった。

講演後の議論では、欧米における仏教研究のあり方や現代科学技術社会における仏教思想の意義など多岐に渡る話題が展開された。デリダは、暴力の根源は、言語による世界の分節化にあると説く。その意味で、世界の分節化を大前提とした知的活動が生活世界に浸透していく媒介物である「テクノロジー」は、デリダの言う根源的暴力の頂点的様態とも言える。仏教思想をデリダの思想と比較することにより、東洋文化の重要な知的財産である仏陀の思想は、時代遅れの古臭いものでは決してなく、現代においても、いや、根源的暴力の頂点的様態であるテクノロジーに浸る現代という時代においてこそ、重要な意義と可能性を持つものであることを改めて知らされる気がした。

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Park教授の穏やかな語り口と理解しやすい切り口の中で、デリダと仏陀の奥深い思想の本質と現代的可能性が垣間見られた非常に印象深い講演であった。(文責:鈴木俊洋)

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