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中期教育プログラム「哲学としての現代中国」第1回報告

2007.11.02 金杭, 哲学としての現代中国

中期教育プログラム「哲学としての現代中国」第1回の報告行われた。本プログラムでは3つの班が同時に動き出している。これから数回は「権力と儀礼」という視座から各研究員の関心に合わせた報告が続くが、それは「現代中国」という時代や地域の枠組みに限定されるものではない。第1回目の報告は、若手研究員、金杭さんにより「正統と異端:散逸した『立統』の試み」と題して行われた。

 金杭さんは、1950年代以降、丸山真男・石田雄・藤田省三の研究会において行われた、「正統と異端」という枠組みによって近代日本思想史を理解しようとする試みについて、今日残されている断片的な個々の論著からその内容を解明し、その試みが失敗した原因を分析された。
 金さんは最初に、丸山らの研究会について説明された。この研究会では、明治維新から敗戦までの思想史を「正統と異端」という枠組みで捉えようとする試みがなされた。しかし、その研究成果として予定されていた筑摩書房『近代日本思想史講座』シリーズ第2巻は、未刊のままに終わり、その試みは失敗したとされている。
 そこで金さんは、この研究会の基本となった「正統と異端」という枠組みについて考察された。そして、17世紀以降の絶対主義において、外的礼拝と内的信仰が区分され、世俗権力の正統性が、教会ではなく主権者の法に求められるようになったこと、そのため、近代思想史においては、教理の上での正統性(othordoxy、O正統)と、世俗権力の正統性(legitimacy、L正統)、さらに合法性(legality)の三者の関係が問題となることを指摘された。
 金さんは、このことから丸山らの研究会の活動を分析し、近代日本においては、法制定権力と道徳の根源が一致し、O正統とL正統と合法性が入り乱れていたために、「正統と異端」という枠組みでは、天皇制的正義をどのように考えるかが大きな課題となったと指摘された。
 そして、「正統と異端」の試みが潰えた原因について、金さんは、近代において道徳と政治が分離するという丸山の原則が当てはまらず、そのため、丸山は「正統なき異端」という考えに移行していったことを指摘された。
 最後に、金さんは、古典回帰の問題について論及され、超越論的な観点からの考察が必要であることを指摘された。(古橋紀宏)

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