そしてそれゆえにこそ、「空」の「行」という、なにも「つくらない」ことにおいて、その「ともに-」という根源的な機構そのものをそれとして浮かび上がらせる非・実践の実践が人類の「歴史」を垂直的に横断する可能性があるのです。