こうしてわたしは、一言で言うならば、「正義」による脱構築(この点については言うまでもなくジャック・デリダのいくつかのテクストを召喚しなければならないわけですが)ではなく、まさにそれ自体としてはそのような倫理的な意味を欠いた「空」――(これは理念でしょうか、それとも理念ではなく、「存在とは別なもの」でしょうか?)――による脱構築を提起していることになります。