一方はそれでもなお、「他者」の「出来事」によって標識づけられ、他方は、そのような(究極的には「神」にほかならない)「他者」ではなく、あくまでも「自我」の「無化」、すなわち「空」によって標識づけられているという根本的な差異は残り続けるのですが……すなわち、われわれのそれぞれの実存そのものにおいて、いかなる超越的な「他者」を仮説することなく(「メシア」の訪れを待つことなく)、そのまま「人類」のダイナミックな歴史運動体の全体、すなわち太古から終末にまで至るその肯定的で実証的な「歴史」を全体として「無化」すること――それこそが、佛教の核にあると思われるブッダの教えのうちに、わたしが見いだそうとしている「希望」です。