いずれにせよ、もし佛教的な思考がわれわれの時代においてひとつのメタ哲学の可能性として現われる可能性があるとしても、それは、もはや単独の実存における脱・実存の道としてだけではなく、同時に、そのままそれが、人類の歴史の全体を横断し、通過し、そこから脱するような道としてあるのでなければならないでしょう。