なぜならば、世界がそのまま「歴史」として現われてくるということは、われわれが、ひとりひとりの個人的な責任、みずからの行為に対しての個別の責任という以上に、かならずしもわれわれが行なったわけではないことに対してすら責任がある、いや、もしここで「責任」という言葉が強すぎるとするならば、「関与」しているというべきだからです。