すなわち「終末」という歴史のまだ来ない、しかし来たるべき究極の「時」において、外在的に歴史を終わらせるのではなく、歴史のなかのそれぞれの実存、それぞれの「時」において、内在性のままで――いや、内在性をその経験を超えた極限にまで徹底することによって、と言うべきかもしれません、――実存から、ということは歴史から、垂直に脱出すること、実践的に「解脱」すること――それこそ、現代という危機の時代にブッダの教えがもたらすことができるかもしれない可能性だとわたしは考えます。