哲学のプログラムに終りがあるのかどうかすら疑わしいと言わなければなりませんが、日本・日本語という文化環境のなかで「哲学」を実践するということになると、佛教という名のもとに積み重ねられてきた人間についての思考と実践の蓄積を、西欧的な哲学の言説と相互干渉させるという誘惑、いや、単なる誘惑ではなく、ある種の「使命」はつねについてまわります。