ポストーンのマルクス読解は、テクストに基づいた読解というよりは、それを独自な仕方で論理的に、ということは抽象的に再構成していくやり方で進んでいくので、わたしのように(デリダ的な)テクストの脱構築に馴れている者からすると、どうも自己完結した論理が空から降ってくるような趣きでなかなかその思考についていけないのだが、しかし資本が歴史のいわば「主体」として登場してくるのはわたし自身の思考とも合致していて首肯できる。