わたしの乏しい映画的記憶のなかでは、タルコフスキー『ノスタルジア』のあの蝋燭の火をかかげて温泉プールを横切る男のシーンを思い出させる、この水のない水底の歩行――それを、こうしてわたしは、ほとんど詩の運命、詩の死の運命に捧げられたある種の祭儀というか、一回限りの儀式と解釈するのだが、それは単に追悼の、喪の儀式というよりは、むしろ逆の、死者を呼び出し、死者と束の間の「ともにあること」、まさにそれそのものが幽霊的である「ともにあること」を行為すること、もっと正確に言えば、イメージを「書き」つつ、そのイメージのエクリチュールにおいて行為することにほかならない。