だが、同時に、それは、この現代の詩の運命に巻き込まれているかぎりでのあらゆる詩人でもあって、ツェランの声は強い声だが、しかしそれもまた、ひとつの透明なフィルム、それを通して、吉増さんが、というより、誰でもない者――nobody――がその詩の、死の「運命」をともに「遭難」するためのひとつの層にすぎないのだ。