アウシュヴィッツという歴史の災厄――ほとんど「純粋の」災厄とでも言いたくなってしまうが――というけっして超えることのできない火(「ガス」という「火なき火」、「火よりももっと透明で、しかしもっと禍々しいもの」! なんということ!)――をはさんで、59歳のデリダと29歳のベンヤミンが行なう、法と正義と暴力とのあいだの関係についての構成的かつ解体的な、つまり脱構築的な「不可能な対話」、このほとんど鏡像のような、しかし取り返しのつかない差異をはらんでいないわけではない一方的な「対話」のなかに、あるいは西欧20世紀という「時代」の深淵がすっぽりと沈みこんでいるように感じるのはわたしだけだろうか。