つまり、法措定の暴力、法維持の暴力をふたつながら支配の暴力として批判し、しかもそうした暴力の核心に「なにか腐ったもの」を見い出しつつ、その彼方にあらゆる歴史の「犠牲者」を「受け入れる」純粋性を夢みる。