デリダのテクストは、その主要な部分において、ベンヤミンのテクストのこうした歩みをきわめて正確に、いや、もとのテクスト以上に正確に辿りつつ(誰もデリダ以上にうまくやることなどできそうにもない)、しかし同時に、その最後で、ベンヤミンにとっては究極の「救い」の可能性でもあった「神的な暴力」に対して――ここでは暴力的に言う以外にはないのだが――その思考が、アウシュヴィッツを準備し惹起した「歴史」の思考と同じ「勾配」(これはわたしの言い方だ)に根づいているのではないか、と批判してもいるのである。